伝記
ラーマクリシュナは、本名をガダーダル・チャットーパーディヤーエといい、1836年2月18日に生まれ、1886年8月16日に没したインドのヒンドゥー教の出家者である。弟子のヴィヴェーカーナンダらが創始した宗教団体ラーマクリシュナ・ミッションの宗祖で、「シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサ」とも呼ばれる。パラマハンサは聖者への尊称である。西ベンガル州フグリー県の、コルカタの北西100キロにあるカーマールプクルという村に、貧しいバラモンの父クデラーム・チャタジーの子として生まれた。母チャンドラーにとっては2人目の息子で、兄ラームクマールは30歳年上だった。学校よりもヒンドゥーの神々の物語を覚えることに興味を持ち、エクスタシー的なトランス状態を経験するようになったという。6歳のときに最初の神秘体験をしたと主張した。
7歳で父が亡くなると、兄が保護者になった。16歳になると兄の祭司の手伝いとしてコルカタに呼ばれた。裕福な未亡人ラーニー・ラーシュマニーが、夢のお告げでダクシネーショワルにカーリー寺院を建て、兄はそこの寺院僧になっていたため、ラーマクリシュナも兄を手伝った。1855年か1856年に兄が急死すると、自らがカーリー寺院の寺院僧になった。バクティ(信愛)を行い、ハタ・ヨーガも実践して見神の探究に没頭し、食事も睡眠もあまりとらなくなった。カーリー女神を自分の母、宇宙の母と信じ、一日数時間、時に数十時間も話しかけ、歌った。女神を見ることができない苦しみから、命を絶とうと寺院の女神像の前にあった刀をつかんだとき、突然女神が現れて気を失い、以後その実在を感じるようになったという。
周囲からは正気でないと思われ、寺院僧の仕事も十分に行えなかったため解雇され、母に故郷へ連れ帰られた。いくらか回復すると、母は23歳のラーマクリシュナを、5歳か6歳の幼女サーラダー・デーヴィーと結婚させ、1859年に正式に結婚した。彼女は妻として十分な年になるまで、両親のもとにとどまった。1860年に寺に戻ると、神秘体験が再び見られるようになった。シャクティ派の女性行者バイラヴィ・ブラフマーニーを指導者に迎え、タントラの行法やヨーガを学んだ。ヴィシュヌ派の行法も修めて、クリシュナを友として見たという。1864年の終わりごろ、僧トーター・プリーが訪れ、ラーマクリシュナは11か月間アドヴァイタ・ヴェーダーンタを学んだ。最高の神秘体験であるニルヴィカルパ・サマーディに入ると、それは3日も続き、トーター・プリーは、自分が40年の修行で至った境地を弟子が易々と達成したことに驚き喜んだという。1866年にはイスラム神秘主義を取り入れ、1874年にはキリスト教に接してイエス・キリストのヴィジョンを見た。1872年ごろには、妻サーラダー・デーヴィーをカーリー寺院に迎えている。
神秘体験に入ることでコルカタ周辺で徐々に知られ、教えを聴きに人が集まった。その中には、のちに高弟となるナレーンドラナート・ダッタ、すなわちヴィヴェーカーナンダがいた。タゴールやブラフモ・サマージのケシャプ・センとも交流した。弟子のマヘーンドラナート・グプターは、その言行を『不滅の言葉』として出版した。1886年8月16日、コシポルの庭園の家で、喉頭がんのため亡くなった。ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる宗教が一つに帰するものだと説いて、ラーマクリシュナ・ミッションを設立し、組織は「真理は一つ。賢者はそれをさまざまに呼びなす」と掲げた。死後は妻が「聖母」として崇敬されるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- デイヴィッド・ライス・アッチソン (1886年没)
- アレクサンドル・オストロフスキー (劇作家) (1886年没)
- オーギュスト・オッタン (1886年没)
- チャールズ・フランシス・アダムズ (1世) (1886年没)
- アグネス・フォン・ヴュルテンベルク (1886年没)
同じ地域に関係する人物
- サタジット・レイ (1992年没)
- Leela Majumdar (2007年没)
- シュニル・ゴンゴパッダエ (2012年没)
- Dwijendranath Tagore (1926年没)
- ラビンドラナート・タゴール (1941年没)