伝記
ラビンドラナート・タゴールは、1861年5月7日、ベンガル州カルカッタの名門タゴール家に、15人兄弟の末っ子として生まれた(14番目で弟がいたという説もある)。家は祖父ダルカナートの代にカルカッタ有数の大商人に成長し、父デーヴェンドラナートは宗教家として著名で、ブラフモ・サマージの指導者を務めた。ラビンドラナートは生まれながらにこの団体の会員だったが、その活動はごく一部のエリートのものにすぎず、一般大衆の宗教心から離れていると感じた。幼いころから詩作に優れていたが、イギリス流の厳格な教育になじめず、3つの学校を中退した。1878年、17歳でロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに留学し、1年半を過ごしたが卒業はできなかった。留学で得たものは多くなく、家の中では相変わらず目立たない存在だった。
父は息子に所帯を持たせることにし、1883年にムリナリニ・デビと結婚させた。1890年にはシライドホにある一族の領地の管理を任され、農村での生活を始めた。そこで、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒の最下層の人々による芸能・修行者の集団バウルの伝説的な存在ラロン・フォキルに出会い、バウルの歌に絶大な影響を受けた。タゴールは2600曲あまりの歌を残したが、バングラデシュ国歌「我が黄金のベンガルよ」を含め、バウルの旋律をそのまま流用した歌も少なくない。詩や文章では、社会の最下層の人々の知恵と文化を語り、バウルの豊かさを紹介した。
自分の学園をつくる構想を抱き、父が道場を開いていたシャーンティニケータンで1898年から校舎の建設を始め、1901年に野外学校を設立した。この学校は1921年に大学となり、1951年にインド国立のヴィシュヴァ・バーラティ国立大学となった。1902年にはインドを訪れた岡倉天心と親交を結び、1913年の天心の死までその交友は続いた。同じ1902年に妻ムリナリニを亡くしている。1905年にイギリスがベンガル分割令を出すと反対運動の先頭に立ったが、やがて政治から身を引いた。1909年、ベンガル語の詩集『ギタンジャリ』を自ら英訳して刊行し、詩人イェイツに絶賛され、序文も贈られた。
1913年、アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞した。1914年にイギリス政府からナイトに叙されたが、1919年のアムリットサル事件に抗議して返上した。1916年に来日して日本の国家主義を批判し、天心の墓を訪れ、ゆかりの六角堂で詩を読んだ。この来日では、日本女子大学校の創立者成瀬仁蔵の招きで講演を行い、軽井沢でも講師を務めている。5度にわたって訪日し、1924年の3度目の来日の際には、対華21か条要求などを「西欧文明に毒された行動」と批判した。満洲事変以後の日本の軍事行動についても批判し、友人の野口米次郎と論争になった。マハトマ・ガンディーらのインド独立運動を支持し、ガンディーに「偉大なる魂」の尊称を贈ったのもタゴールとされる。ロマン・ロランやアインシュタインらとも親交を深め、マリア・モンテッソーリとの交流を経て、モンテッソーリ教育を真の平和教育と賞賛して強く支持した。
1941年8月7日、80歳で死去した。1950年1月24日には、彼がベンガル語で作詞作曲した「ジャナ・ガナ・マナ」がインド国歌に採用された。1970年のバングラデシュ独立戦争では、1905年に彼が作詞した「我が黄金のベンガルよ」が解放軍によって歌われ、独立後の1971年1月16日に正式に国歌となった。
同じ年に亡くなった人物
- カタジナ・ラジヴィウ (1941年没)
- アレクサンドロス・コリジス (1941年没)
- ルドルフ・ヒルファディング (1941年没)
- イーゴリ・セヴェリャーニン (1941年没)
- エルンスト・リンデマン (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- ケーシャブ・チャンドラ・セーン (1884年没)
- プラフラ・チャンドラ・レイ (1944年没)
- Henry Louis Vivian Derozio (1831年没)
- ウダイ・シャンカール (1977年没)
- ウィリアム・ジョーンズ (言語学者) (1794年没)