HISTORICAL PERSON · 1886年没

エミリー・ディキンソン

アメリカの詩人。マサチューセッツ州アマーストの名家に生まれ、エマーソンの影響で詩作を始めた。1860年代前半から社会と距離を置いて詩作に打ち込み、生前はほぼ無名だったが死後に評価が高まった。

生涯
1886年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / アマースト)
出生地
アメリカ合衆国(アマースト)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

エミリー・エリザベス・ディキンソンは、1830年12月10日にマサチューセッツ州アマーストで生まれ、1886年5月15日に没したアメリカの詩人である。アマースト大学の財務に携わる法律家の家に生まれ、厳格なピューリタンの父のもとで質素に育てられた。祖父サミュエル・フォウラー・ディキンソンはアマースト大学の創設者の一人だが、私財を投げ打ったために財政危機に陥り、1833年に屋敷を手放して、のちオハイオ州に移住し失意のうちに亡くなった。父エドワードは大学の出納係を務め、法律事務所を経営する街の名士で、1852年にホイッグ党員として下院議員に選ばれ、1855年に手放された屋敷を買い戻して移り住んだ。母は物静かで控えめな人物とされ、エミリーは母に冷たさを感じていたが、母が弱った晩年には、その感情が温かみのあるものに変わった。兄オースティンとは親しかったが、兄の結婚後は距離が生まれた。1歳年下の妹ラヴィニアは、双子のように育った。ディキンソン家は特別だという強い意識をもち、家族のつながりの強い家であった。

1840年から1847年までアマースト・アカデミーで学び、このころスーザン・ギルバートと友人になった。10代から並外れた言語の才能を示し、感受性が豊かで、強い自意識をもっていた。人見知りをする面もあった。次いでマウント・ホリヨーク女学院に入り、寮生活を送った。法律を学んでいたユニテリアンのベンジャミン・フランクリン・ニュートンと出会って私淑し、彼からラルフ・ウォルドー・エマーソンの著作を紹介されて愛読するようになる。しかし学校が生徒に繰り返し堅信を求めることに疑問を持って拒否を貫き、ホームシックもあって、1年で退学して家に戻った。この苦い経験以降はピューリタンの伝統と距離を取り、エマーソンの超絶主義の影響のもとで詩作を始めた。親友のスーザンはのちに兄オースティンと結婚して隣家に住み、エミリーの詩のほとんど唯一の読者で、重要な批評家だった。

エミリーは妹とともに家事と病気の母の介護に励み、人生の大部分を屋敷で過ごして、生涯独身だった。1860年代の初めに、説明しがたい何らかの危機に苦しみ、作詩に専念するため屋敷に引きこもるようになったと考えられているが、理由は推測の域を出ない。教会にも行かなくなり、社会との直接的な関わりから身を引いたが、同時に詩作が盛んになり、生涯で最も活発に詩を書いた。隠遁のような暮らしでも、友人や従姉妹と頻繁に手紙をやり取りした。恋については、「マスターレター」と呼ばれる投函されなかった恋文が知られ、唯一確かな晩年の恋の相手は、父の親友だった18歳年上の判事オーティス・フィリップス・ロードである。二人は結婚を考えたと推定されるが、ロードが1882年に倒れ、1884年に亡くなった。

エミリーはブライト病を患い、約2年半の闘病生活ののち亡くなった。1800篇近くの詩を残したが、「出版は人の心の競売です」とうたい、生前に公に掲載されたのは、無記名の10編の詩と1通の手紙だけで、出版を持ちかけたことはない。主題は死、不滅、意識、庭、言葉、神などで、高度に圧縮された短詩であり、ピリオドの代わりにダッシュを多用するなど、文法的に破格な表現が多い。詩には題がなく、ジョンソン版とフランクリン版の番号や、詩の1行目で呼ばれる。時代に先駆けていたため評価に時間がかかったが、死後に高まり、ウォルト・ホイットマンと並ぶアメリカ独自の詩の創始者とみなされている。妹ラヴィニアは姉の死後に原稿を発見し、人生の大部分を詩の出版に捧げた。

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