伝記
エウダモスは、アレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍で、ディアドコイの一人に数えられる。生年は不明で、紀元前316年に没した。インドに駐留してその地の支配に関わり、のちには後継者戦争でエウメネスの陣営に加わった人物である。
紀元前326年、インドの太守ピリッポスが自らの傭兵部隊に謀殺された。アレクサンドロスはインドにいたエウダモスとタクシレスに書簡を送り、新たな太守を任じるまでピリッポスの管轄していた地域を預かるよう命じた。つまり中継ぎの役目であり、エウダモスが正式に太守に任命されたわけではないとみられる。結局、王は後任の太守を指名しないまま世を去った。アレクサンドロスの死後、バビロンでの取り決めでは、この地域はパウラヴァ族の王ポロスの下に置かれ、タクシレスはパンジャブの太守となったとされる。この配置はトリパラディソスの取り決めでも確認された。
王の死後のある時期、少なくとも紀元前317年までに、エウダモスはポロス王を殺害してその領地を奪った。ポロスのデカドラクマ貨は、王の死後にエウダモスが鋳造させたものだとする説もある。ポロスの殺害は「不実な」やり方だったとも伝えられる。こうしてインドの北部を握ったエウダモスは大きな力を持つようになった。やがてエウメネスとアンティゴノスの間で戦争が再燃すると、紀元前317年に騎兵500、歩兵300、戦象120頭を率いてエウメネスの側に加わった。エウメネスはその見返りとして、王の財庫から200タラントンを与えたともいわれる。翌年にはペイトンもインドの太守領を離れて西へ向かい、まもなくインドの支配はマケドニア人の手を離れた。
エウメネス陣営では、将官たちの間に彼への妬みがあり、アンティゲネスやテウタモスらが陰謀を相談していた。エウダモスはその話し合いに加わったが、エウメネスに金を貸していたため、陰謀が成って彼が失脚すれば貸し金が戻らなくなると考え、戦いの前に陰謀のことをエウメネスに打ち明けたという。同じ話は、副官のパイディモスとともに忠義からではなく貸し金を失うのを恐れて陰謀に加わらなかった、という形でも伝わる。紀元前317年のパライタケネの戦いでは、エウダモスの部隊はエウメネス軍の左翼に配置されたが、戦象のすべてが戦列に並べられたわけではなかった。翌紀元前316年のガビエネの戦いで、エウダモスは騎兵200を率いて最左翼に布陣した。エウメネス軍の中央と右翼はアンティゴノス軍を押していたが、そのために左翼との間に隙間が生じた。アンティゴノスはその切れ目から騎兵を突入させ、エウダモスの隊の側面を突いた。不意を衝かれたエウダモス隊は大きな損害を受けて敗走し、インド人部隊の指揮官ケテウスもこの戦闘で戦死した。それでも戦いそのものは、輜重隊を奪われたものの、エウメネス軍の優勢に終わった。
戦いの後、アンティゲネスらは輜重隊の返還を条件にアンティゴノスと取引し、エウメネスを引き渡して降伏した。エウダモスもこれらの将官に与したとされる。しかしアンティゴノスはエウメネスと全軍を手にすると、アンティゲネスを穴に落として生きたまま焼き殺し、インドから象を連れてきたエウダモスらも処刑した。エウダモスはアンティゴノスに対して常に強い敵意を示していたと伝えられる。なお、ペイトンの弟にも同名のエウダモスがいたが、インドのエウダモスとは別人である。
同じ年に亡くなった人物
- カルディアのエウメネス (紀元前316年没)
- ペイトン (紀元前316年没)
- ミトレネス (紀元前 316年)
- オリュンピアス (紀元前316年没)
- アンティゲネス (紀元前316年没)
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