伝記
ムハンマド・アフマドは、19世紀末のスーダンの宗教家で、1881年に救世主を意味する「マフディー」を名乗ってマフディー運動を始めた人物である。生年は1844年8月12日とされるが、1845年とする記述もある。スーダン北部の町ドゥンクラーのラバブ島に、おそらくアラブ化した家系の子として生まれた。父アブドゥッラーフは船大工で、つましく暮らしながら、自らの家系はハサン系だと主張していた。幼いころに一家は船作りに使う木材を求めて、ウンム・ドゥルマーンの北のキャラリーに移った。兄弟たちが父の仕事を手伝う中、ムハンマド・アフマドは一人、イスラームの教えの学びにのめり込んだ。
最初はジャズィーラ地方で、次いで北部の町の近くでそれぞれ師に学び、やがてスーフィーとして神への崇拝と禁欲の生涯を送ることを心に決めた。1861年ごろ、サンマーニーヤ教団の教祖の孫にあたるムハンマド・シャリーフ師を訪ね当て、7年間をともに過ごした。この間は敬虔で禁欲的な日々だったと考えられている。1870年に一家は再び木材を求めて、白ナイル川をハルトゥームから約150キロさかのぼったアーバー島に移った。そこでモスクを建ててクルアーンを教え始め、すばらしい説教をする偉いスーフィーとして評判になった。その思想は、クルアーンの原点に立ち返り、そこから外れるものを異端とみなす原理主義だった。1872年にはシャリーフ師に招かれて近くのアラーダイブ村に移ったが、弟子が衆望を集めることに師が不満を抱いたことなどから、1878年に言い争いが起こり、弟子たち同士の暴力的な争いにまで発展した。のちに師の息子の割礼の祝宴で、歌舞音曲は受け入れられないと言って再び口論となり、教団から追放された。
その後、教団で師と並ぶ力をもつ年老いたシャイフ、クラシー・ワド・ザインに受け入れられ、新しい師のもとで修行を続けた。この時期にはクルドゥファーン地方を旅し、中心都市ウバイドの有力者のみならず、説法を聞きに来た普通の人々にも分け隔てなく恩恵を授けて、評判を高めた。1878年7月にクラシー師が亡くなると、弟子たちは彼を新たな指導者と認めた。のちに後継者となるカリフ・アブダッラーヒと知り合ったのも、このころである。
1881年6月29日、自分がマフディーであり、来るべき預言者イーサーの再来に備えて道を整える者だと公式に宣言した。この宣言は、トルコ=エジプトの支配者の圧政への怒りが広がる中で、人々の間で人気のあった救世思想を利用したもので、その年がヒジュラ暦で世紀の変わり目にあたることも背景にあった。彼は、預言者たちが集う幻視の集会でマフディーに指名されたと主張した。自分を「神の預言者の代理人」と呼び、側近4人を正統カリフの名で呼び、従う者を「アンサール」と称させた。運動は、エジプトを支配するムハンマド・アリー朝の政府に対して善戦し、1885年1月にハルトゥームを陥落させた。しかし、ハルトゥームを占領してわずか半年後の1885年6月22日に病死し、新しい国家の統治は代理人のカリフ・アブダッラーヒに受け継がれた。一方で、正統なウラマーの多くは彼を嘲笑し、とりわけオスマン帝国のスルタンに忠実なウラマーが激しく批判した。
同じ年に亡くなった人物
- アービン・マクドウェル (1885年没)
- ユリシーズ・グラント (1885年没)
- アルフォンス・ド・ヌヴィル (1885年没)
- ニコライ・ダニレフスキー (1885年没)
- カール・シュピッツヴェーク (1885年没)
同じ地域に関係する人物
- ダニエーレ・コンボーニ (1881年没)
- モハメド・アン=ヌメイリ (2009年没)
- チャールズ・ゴードン (1885年没)
- プトレマイオス13世 (紀元前47年没)
- Mahmoud Muhammad Taha (1985年没)