伝記
イサク・ベン・ソロモン・イスラエリは、10世紀前半にアラブ世界で活動したユダヤ人の医師・哲学者である。大イスラエリやユダヤ人イサクとも呼ばれる。当時のアラブ圏に暮らしたユダヤ人学者の中で第一級の存在とされ、中世ユダヤ思想における新プラトン主義の父と見なされている。著作はすべてアラビア語で書かれ、のちにヘブライ語、ラテン語、スペイン語に訳された。生涯についてはよくわかっていない。伝記的な記述の多くは、10世紀後半にアンダルスのアラブ人著述家イブン・ジュルジュルが著した『医師列伝』と、11世紀半ばのトレドのサイードによる『諸国民の分類』に拠っている。13世紀にはイブン・アビー・ウサイビアが、これらや、弟子イブン・アルジャッザールの『ファーティマ朝史』などをもとに記述をまとめた。
832年ごろ、エジプトのユダヤ人の家に生まれたとされる。人生の前半はカイロで過ごし、眼科医としての腕前で名を知られた。エジプトを離れる前には、中世ユダヤ教で最も影響力のあった人物の一人サアディア・ベン・ヨセフ・アルファイユーミ(882年-942年)と書簡を交わしている。904年ごろ、最後のアグラブ朝の君主ジヤーダト・アッラー3世の宮廷医に任じられた。905年から907年にかけてはカイラワーンへ赴き、イスハーク・イブン・イムラーン・アルバグダーディーのもとで一般医学を学んだ。この人物としばしば混同されることがある。
のちには、北アフリカで910年から934年まで在位したファーティマ朝の創始者ウバイドゥッラー・アルマフディーに仕えた。カリフはこのユダヤ人医師の機知を好み、ギリシア人のアルフバイシュと張り合わせて、やり込めるやりとりを楽しんだという。カイラワーンで彼の名声は広く知れわたり、アラビア語で書かれた著作は、イスラム教徒の医師たちから「宝石よりも価値がある」と見なされた。講義には大勢の弟子が集まり、とくに著名だったのは、イスラム教徒のアブー・ジャアファル・イブン・アルジャッザールと、ドゥナシュ・イブン・タミームである。博物学、医学、数学、天文学などを学び、「七つの学問」をすべて知る人物と評判だった。
伝記作家たちは、彼が結婚せず、子もなかったと述べている。カイラワーンで没したとされ、アラビア語の典拠の多くは932年としており、生年を832年とする。ただしアブラハム・ベン・ハスダイは942年没と伝え、グレーツは100歳を超えて生きたとして845年から940年という年を挙げ、シュタインシュナイダーは950年没としている。
没後の影響は大きかった。956年、弟子のドゥナシュ・イブン・タミームは、ヘブライ文字の組み合わせが宇宙の構造を決めると説く神秘的な宇宙生成論の書『創造の書』に長大な注釈を著し、その中で師を大量に引用した。そのため19世紀の学者の一部は、この注釈をイスラエリ自身の作と取り違えた。11世紀には、サレルノ医学校の教授コンスタンティヌス・アフリカヌスが彼の著作の一部をラテン語に訳した。12世紀には、トレドの学者たちがアラビア語の科学・哲学書をラテン語に移す中で、クレモナのゲラルドが『定義の書』と『元素の書』を訳している。哲学はキリスト教やユダヤ教の思想家に大きな影響を与え、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、ロジャー・ベーコン、クザーヌスらに引用や言い換えがなされた。イスラム教徒への影響はわずかだった。新プラトン主義とガレノス医学の伝統が衰えるにつれ、その影響も薄れていった。
同じ年に亡くなった人物
- 銭鏐 (932年没)
- ムクタディル (932年没)
- アル・ハーキム・アッ=テルミーズィー (932年没)
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