伝記
ヴァシーリー・グリゴリエヴィチ・ペロフは、1834年1月2日(ユリウス暦1833年12月21日)、ロシア帝国のトボリスクで生まれた画家である。ロシア写実主義運動の中心人物の一人であり、移動展覧会協会の創設メンバーでもある。「ヴァシーリー」は「ワシーリー」、「ペロフ」は「ペローフ」とも表記される。父は地元の検察官を務めていたバルト・ドイツ系の貴族の男爵で、彼はその非嫡出子として誕生した。両親は出生後まもなく結婚したが、父の姓と男爵の称号を継承する法的な根拠がなかったため、名づけ親の姓を取って、出生時の名はヴァシーリー・グリゴリエヴィチ・ヴァシリエフとなった。カリグラフィーを教えた教師が、その卓越した腕前から、ロシア語で「羽根」「筆」を意味する言葉にちなんでペロフというあだ名をつけ、彼は後にこれを正式に姓とした。
アルザマスの学校の課程を終えた後、1846年から1849年にかけて同地のアレクサンドル・ストゥピンの美術学校に通った。1853年に名門のモスクワ絵画彫刻建築学校に入学し、主にセルゲイ・ザリャーンコのもとで学んだ。1856年には、少年の頭部を描いたスケッチで、帝国美術アカデミーから小銀勲章を受けた。1857年には大銀勲章や小金勲章を受けている。さらに1861年に絵画「村の説教」で大金勲章を受賞し、海外旅行の給費金を得る権利を手にした。1862年にエレーナと結婚し、同年に西欧へ旅立って、ドイツのベルリン、ドレスデン、デュッセルドルフなどを訪れた後、パリへ向かった。この旅行中は、ヨーロッパの街の生活場面を数多く描き、パリのくず拾いなどの作品を残した。
1864年の秋にモスクワに戻り、妻の叔父の家に住んだ。早くに帰国した後の1865年から1871年にかけては、「泉のそばの行列」「修道院の食事」「最後の旅」「トロイカ」「居酒屋の最後」「鳥捕り」「釣り人」「休息する猟師たち」など、最もよく知られる作品を次々に生み出した。1866年にアカデミー会員の称号を受け、1871年にはモスクワ絵画彫刻建築学校の教授になった。この時期に、アカデミーの制約に抗議して結成された画家たちの協同組合である移動派に参加した。1882年6月10日(ユリウス暦5月29日)、モスクワ近郊のクジミンキ村で結核により亡くなり、亡骸はモスクワのドンスコイ墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ハブロット・ナイト・ブラウン (1882年没)
- カタリナ・イヴァノヴィッチ (1882年没)
- ガバヌーア・ウォーレン (1882年没)
- イグナツィ・ウカシェヴィチ (1882年没)
- セルゲイ・ネチャーエフ (1882年没)
同じ地域に関係する人物
- Vsevolod Kochetov (1973年没)
- アナトリ・イオノフ (2019年没)
- ゲナジ・サラファノフ (2005年没)
- ナデジダ・イリーナ (2013年没)
- ゲオルギー・ショーニン (1997年没)