HISTORICAL PERSON · 1882年没

アルテュール・ド・ゴビノー

フランスの文人・外交官。主著『人種不平等論』で人種を文明の淵源とみなし、混血による文明の退化を論じた。伯爵は自称だった。

生涯
1882年没
死亡地
イタリア共和国(トリノ県 / トリノ)
出生地
フランス共和国(ヴィル=ダヴレー)
出典
世界地図
イタリア共和国(トリノ県)

伝記

ジョゼフ・アルテュール・ド・ゴビノー伯爵は、1816年7月14日に生まれ、1882年10月13日にトリノで没したフランスの文人、外交官である。貴族主義者であり、科学的人種主義の主要な理論家の一人とされる。「伯爵」は自称で、正式に授爵されたことはない。

オー=ド=セーヌ県のヴィル=ダヴレーに、ボルドーに起源をもつ法服貴族の家の子として生まれた。父は官僚で近衛連隊将校の強硬な君主論者であり、ゴビノー家が「ド」を付けるようになったのも父の代からである。母アンヌ=ルイーズ・マドレーヌ・ド・ジェルシは、サントドミンゴ生まれのクレオール女性で、ポーリーヌ・ボナパルトの女官を務め、長篇小説や回想録を著した。幼いころの彼は繊細で神経質な子供で、両親の不和と不安定な家庭生活に左右された。14歳のとき、母が詐欺事件を起こして逃れたため、母に連れられてスイスで数年を過ごし、ドイツ語を磨いてペルシア語にも触れ、東洋趣味への興味を育んだ。のちに父のもとへ戻り、ロリアンの王立中学に通ったが、規律違反などで退学になったらしい。

1835年にパリで文筆家を志し、年老いた伯父の援助を受けて暮らしたが、1836年9月に伯父から援助を絶たれた。人脈を使って新聞に記事を書き、反動主義者の雑誌に連載小説を書いて生計を立てた。このころアレクシ・ド・トクヴィルと友情を結び、膨大な量の書簡をやり取りした。トクヴィルは第二共和政で外務大臣を務めていたとき、ゴビノーを外務省に入れている。ゴビノーは初めペルシアに、次いでブラジルなどに赴任し、第二帝政時代に外交官として成功を収めた。

主著『人種不平等論』(1853年〜1855年)で、人種こそ文明の淵源だと説いた。黒・白・黄の三人種の間の差異は自然が設けた障壁であり、リベラル・デモクラシー的な普遍主義や植民地帝国主義によって混血が進み、障壁が破られると、文明が退化・崩壊してカオスに戻ると考えた。ただし、白が優越人種とは考えず、むしろイタリア人やギリシア人の芸術的才能は黒色人種に由来すると考えた。ユダヤ人を知的人民と見なして称賛し、歴史学者ポリアコフは「最も反ユダヤ主義的ではない」人物としている。それでも彼の思想はヒトラーとナチズムに影響を与えたとされ、ナチは理論を借用する際に著作の少なからぬ部分を改竄しなければならなかった。現代の研究では、この著作は疑似科学として広く退けられている。

ゴビノーは長篇小説も書き、代表作は1874年の『プレイヤード』である。戯曲『ルネサンス』(1877年)は当時高く評価された。バハイ教徒の間では、ペルシアにおけるバーブ教勃興史の唯一の完全版を手に入れた人物として知られる。死の直前にはワーグナー信奉者の聖地バイロイトを訪れ、反ユダヤ的なバイロイト・サークルの勃興に影響を与えたが、中心人物のチェンバレンは彼を嫌っていた。その直後にトリノで死去した。晩年まで貴族趣味的な著作を書き続けた。彼の思想は反近代主義、反普遍主義、反中央集権、反民主主義であった。自らを北欧のヴァイキングやイタリアの傭兵隊長の末裔と信じていたが、母方を通じて四分の一クレオールの血を引いていた。

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