HISTORICAL PERSON · 1882年没

ジュゼッペ・ガリバルディ

イタリア統一運動の軍人。千人隊を率いてシチリアの反乱を援助し、両シチリア王国を滅ぼした。「二つの世界の英雄」と呼ばれる。

生涯
1882年没
死亡地
イタリア共和国(オルビア=テンピオ県 / カプレーラ島)
出生地
フランス共和国(ニース)
出典
世界地図
イタリア共和国(オルビア=テンピオ県)

伝記

ジュゼッペ・ガリバルディは、1807年7月4日に生まれ、1882年6月2日に没した、イタリア統一運動を推進した軍事家である。多くの軍事行動を個人的に率い、ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」と呼ばれた。カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。

当時第一帝政下のフランス領であったニース(ニッツァ)に生まれた。両親は海上貿易に携わり、彼も常に海の上で育って、1832年には商船隊の船長となった。1833年4月、船がロシアの港タガンログに停泊した折に、イタリアからの政治亡命者で青年イタリアのメンバーと出会い、これを機に青年イタリアに参加して、オーストリアの支配を受ける祖国の自由のために戦うことを誓った。同年11月にジェノヴァでマッツィーニと会見し、秘密結社カルボナリにも加わった。1834年、ピエモンテの共和制を求める反乱に参加して失敗し、フランスに亡命した。1836年に南米へ航海し、ブラジルの羊飼いの娘アニータと出会い、1842年に結婚した。リオ・グランデ・ド・スル州の独立戦争に義勇兵として参加し、ウルグアイでも戦ってゲリラ戦術を身につけた。用兵術に長け、カリスマ性もあり、部下の信頼を勝ち取った。

1848年の革命騒動を聞いてイタリアへ帰国した。マッツィーニの指導でローマ共和国が成立すると、ナポレオン3世が倒すために軍を送り、ガリバルディはローマ防衛の責任者となった。義勇兵たちとともにジャニコロの丘でフランス軍を破ったが、立て直したフランス軍はローマを包囲した。1849年6月30日の協議で、彼は「我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する」と抗戦を主張し、7月2日に4,000人の兵士を連れてローマを脱出した。フランス軍が教皇領を復活させ、追撃を受けて多くの兵士が倒れ、ラヴェンナの近くで、常に夫と共に前線で戦った妻アニータも戦死した。サヴォイア家からは支援を拒まれ、1850年に渡米してニューヨークの市民となり、スタテン島の蝋燭工場の運営を手伝ったが、再び戦いを望んだ。船を手に入れて太平洋への航海に何度か出た。1854年に欧州へ戻る途中、イングランド北東部に入港し、名声を知る住民から熱狂的に歓迎され、記念の剣を喜んで受け取ったという。

同年後半にイタリアへ帰国し、カプレーラ島の半分を購入して農業を営みながら機会を伺った。1859年に第二次イタリア独立戦争が起こると、マッツィーニの共和的な理想主義と決別してサルデーニャ・ピエモンテ軍に加わり、義勇師団「アルプス猟兵隊」を組織して、オーストリア軍に勝利した。しかし、故郷ニースがフランス参戦の見返りとして割譲されたことに激怒し、密約を進めたカヴールを強く批判した。

1860年5月6日、義勇兵「千人隊(赤シャツ隊)」を率いてジェノヴァのクワルトから二隻の船で出港し、5月11日にシチリア島のマルサーラに上陸して、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名において独裁官の地位に就くと宣言した。シチリアの民衆は呼応し、約1800名のブルボン軍に勝利した千人隊は、パレルモに入城した。7月にはシチリア島全土を支配下に置き、北イタリアから6000人以上の義勇兵が参集して、千人隊は「南部軍」に改称された。この遠征は、両シチリア王国を併合する考えのなかったカヴールを方針転換に追い込み、ガリバルディは征服地をヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に貢献した。一方、南イタリアの一部の歴史家は、この遠征を北イタリアによる不当な侵略だったと捉えている。

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