伝記
レオ6世は、第123代ローマ教皇である。在位は928年に始まったが、就任の時期は5月とも6月ともいわれる。出身はローマで、貴族の家柄と伝えられ、父クリストフォルスは、教皇ヨハネス8世の時代の876年頃に教皇庁の首席書記官を務めた人物であった。父は法律家だったとする記述もある。一族は伝承ではサングイニ家の一員とされる。生年は880年頃ともいわれるが、確かではない。教皇になる前は、サンタ・スザンナ教会の司祭枢機卿を務めていた。若い頃の経歴はほとんどわかっていない。
928年5月、先代のヨハネス10世が廃位されて、レオ6世が新教皇に選ばれた。ヨハネス10世はまだ生きていたが、獄中にあった。選出は、テオフィラット1世の娘マロツィアの力によるものとされる。マロツィアはトスカーナ辺境伯グイードの妻で、夫を通じてローマを支配し、ヨハネス10世の投獄と死を命じた人物とされる。選出は無政府状態の時期のことで、この頃はのちに「暗黒の世紀」と呼ばれる時代にあたる。選出時にはすでに高齢だったともいう。在位中の特筆すべき出来事は、自身の死を除けばほとんど記されていない。
それでも、いくつかの決定が記録に残る。ダルマチアの教会について、先代が進めていた調査を引き継いで完了させ、スプリト教会会議の決定を追認した。サロナ大主教ヨハネにパリウムを授け、ダルマチアの司教たちに大主教に従うよう命じ、ノナの司教らには自分の教区の範囲にとどまるよう定めた。去勢された聖職者の結婚も禁じたとされる。ローマを脅かすアラブ人の襲撃者に対する援助を呼びかけ、この戦いで信仰を守って死んだ者は天の国への入国を拒まれないと述べたと伝えられる。一方、残る手紙は1通だけとされ、ローマの平和のために努め、サラセン人やハンガリー人と戦ったとも伝えられる。
在位は7か月あまりと短く、正確な日付はわかっていない。年代記作者フロドアールは、彼が七か月と五日のあいだ守られたと記した。在位半年ほどで殺害されたと伝えられ、命じたのはマロツィアとされる。没年月も、928年12月とも929年2月ともいわれ、一致しない。遺体はサン・ピエトロ大聖堂に葬られたという。後継の教皇はステファヌス7世であった。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス10世 (ローマ教皇) (928年没)
- トミスラヴ (クロアチア王) (928年)
- Gregory of Nin (928年)
- ルイ3世 (プロヴァンス王) (928年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュリオ・アンドレオッティ (2013年没)
- ロモロ・ヴァリ (1980年没)
- アブドゥラヒ・イッサ・モハムド (1988年没)
- ロレッラ・デ・ルーカ (2014年没)
- Gaius Memmius (紀元前45)