伝記
ジュリオ・アンドレオッティは、1919年1月14日にローマで、三人きょうだいの末っ子として生まれたイタリアの政治家である。ローマ大学で法律を学んだ。第二次世界大戦後にキリスト教民主党に入党し、1946年に下院議員に当選した。翌1947年には、アルチーデ・デ・ガスペリ内閣の首相府の副長官となった。以後、冷戦下のイタリアで最大の反共保守政党だったキリスト教民主党の実力者として頭角を現した。1954年1月に、アミントレ・ファンファーニ内閣の内務大臣として初めて入閣し、その後も外務、国防などの要職を兼ね、入閣は計19回に及んだ。首相は、1972年2月から1973年7月、1976年7月から1979年8月、1988年7月から1992年6月の3回、合計7つの内閣にわたって務めた。3回目の在任中の1991年6月には、国家への貢献を認められ、終身上院議員の地位を得た。
キリスト教民主党のほかの有力者と同じく、一貫して親西側、反共の姿勢をとり、北大西洋条約機構を通じて同盟関係にあり、貿易面でも関係が深いアメリカとは、良好な関係を保っていたといわれる。その一方で、首相に就く前も在任中も、国の内外で、マフィアなどの犯罪組織との親密な関係が「公然の事実」として語られた。マフィアの構成員は、彼を親しみを込めて「ジュリオおじさん」と呼んだといわれる。そのため、イタリア現代史に残るマフィアがらみの犯罪や暗殺事件への関与を、首相在任中から疑われた。秘密結社「ロッジP2」との関係も指摘されたが、アンドレオッティ自身は会員ではなかった。
冷戦が終わると、事情は変わった。反共であることでアメリカなどから守られてきた各国の政権が力を失う中、イタリアも例外ではなかった。アンドレオッティ本人や側近とマフィアなどとの関係、汚職が次々に明るみに出て、1992年6月に首相の座を追われた。長年にわたって最高権力者として君臨したキリスト教民主党は、1994年に解党に追い込まれた。首相退任の翌年の1993年5月には、贈賄とマフィアとの癒着の容疑で、検察から捜査の通告が出された。リイナが指名手配中に、数回密会していたことも裁判で明らかになったという。これらから、マフィアと政界の癒着を捜査していたジョヴァンニ・ファルコーネ判事が、1992年5月に高速道路の爆弾で暗殺された事件の「黒幕」と目されたが、2003年5月に控訴審は無罪を言い渡した。元首相アルド・モーロが「赤い旅団」に誘拐された事件では、アンドレオッティが率いる内閣は、逮捕者の釈放要求を拒み、モーロは殺害された。モーロは、監禁中に書かされた手紙で、アンドレオッティを「悪事を行うために生まれてきた男」と批判した。
複数の裁判で、実刑を受けることなく終わったアンドレオッティは、影響力を失いながらも、終身議員として活動を続けた。2009年には90歳となり、テレビの生放送の取材中に突然体が硬直し、健康不安がささやかれた。それでも、新聞への連載や取材への応答を続けた。毎日教会のミサを欠かさず、修道士に多額の寄付をし、4人の歴代の教皇と親しかったという。「権力は、それを持たない者を消耗させる」という言葉を残した。あまりに長く実力者の座にあったため、「イタリア政界の硬直化の象徴」と見られ、「魔王ジュリオ」とも呼ばれた。2013年5月6日、ローマの自宅で亡くなった。2008年には、その生涯をもとにした映画『イル・ディーヴォ』が作られ、カンヌ国際映画祭の審査員賞を受けた。
同じ年に亡くなった人物
- カルロス・グラサ (2013年没)
- ミハイル・ゴルシェニオフ (2013年没)
- ウィリアム・グラッサー (2013年没)
- ロッセーラ・フォーク (2013年没)
- Antonio Jasso (2013年没)
同じ地域に関係する人物
- アルバロ・デル・ポルティーリョ (1994年没)
- ラファエル・ボンベリ (1572年没)
- Vladimir Smirnov (1982年没)
- パウル・ヤンセン (2003年没)
- ニコラウス5世 (ローマ教皇) (1455年没)