伝記
エルフウェルドは、イングランド王エドワード長兄王と2番目の妻エルフフェドとの最初の子で、エドワードにとっては2番目の男子にあたる。生年は900年頃とも904年ともされ、924年8月2日に没した。父の死のわずか16日後に世を去ったため、王であったのかどうかさえ、はっきりしない人物である。
エドワード長兄王は、父アルフレッド大王が没して王位を継いだ899年ごろにエルフフェドと再婚した。エルフウェルドはその後まもなく生まれたと考えられ、901年の父の勅許状二通に、異母兄アゼルスタンより前に証人として名が挙げられている。父の即位後に生まれたことは、王位継承の面で彼の正統性を高めるものだったとされる。
924年7月17日にエドワードが没したとき、五人の子が残された。エドマンドとエドレッドは幼く、後継者になれる年齢ではなかった。マーシアの人々は、おそらくその宮廷で育ったアゼルスタンを父の後継に選び、ウェセックスのサクソン人は、エドワードと2番目の妻との子であるエルフウェルドを選んだとされる。後者は、エドワード自身の本来の意向でもあったかもしれないという。エルフウェルドの死について『アングロサクソン年代記』は簡潔に記すのみで、父の死から間もなく亡くなり、父とともにウィンチェスターに葬られたという。年代記のうちD写本は、父より16日長く生きただけだと明記する。ここでは、彼の治世があったとは明言されていない。一方、12世紀のロチェスター本文の西サクソン王名表は彼を父の後継者とし、在位を4週間とする。11世紀のニュー・ミンスター同胞の書も彼を王として記している。これに対して、アゼルスタンの存命中に書かれた文書を要約したマームズベリのウィリアムは、アゼルスタンが父の遺言に従って即位したと述べている。
こうした食い違いから、近年の歴史家のあいだでも解釈は分かれている。エルフウェルドが異母兄に先んじて父の王位を継いだとする見方がある一方、エドワードの後継者はアゼルスタンだけだったとする説もある。マーシア系の年代記は、アゼルスタンがマーシア人の王になったと記し、ウィリアムも、アゼルスタンが伯母エセルフレドのマーシアの宮廷で育てられたと伝える。このため、王国が二人に分けられたという推測もある。サイモン・ケインズは、ウェセックスではエルフウェルドが、マーシアではアゼルスタンが王と認められたとみる。エドワードが死後の分割を望んでいた可能性はあるが、ウェセックスの有力者がエルフウェルドを選び、マーシアがこれに対抗してアゼルスタンを立てた可能性のほうが高いという。エルフウェルドは王であったとしても、戴冠しなかったのかもしれない。
エルフウェルドは924年8月2日にオックスフォードで亡くなり、ウィンチェスターのニュー・ミンスターに葬られた。ロチェスター本文の4週間の在位に従えば、死は2日ではなく、それより遅い時期になるともいう。死因については、異母兄アゼルスタンの命による暗殺ではないかとする説もある。その後もアゼルスタンはウェセックスで受け入れられるのに苦労し、ウェセックス王として戴冠したのは、エルフウェルドの死から1年以上を経た925年9月4日であった。この遅れは、アゼルスタンへの強い抵抗があり、エドワードとエルフフェドの間の子エドウィンを推す動きがあったことを示すとの見方もある。
同じ年に亡くなった人物
- ベレンガーリオ1世 (イタリア王) (924年没)
- イブン・フザイマ (924年没)
- オルドーニョ2世 (924年没)
- エドワード長兄王 (924年没)
- ザハリエ・プリビスラヴレヴィチ (924年)
同じ地域に関係する人物
- ジャック・ベレスフォード (1977年没)
- カール・デイヴィス (2023年没)
- アンソニー・アトキンソン (2017年没)
- フィリッパ・フット (2010年没)
- トマス・クランマー (1556年没)