伝記
リュンケスティスのアレクサンドロスは、アイロポスの子で、マケドニア北部の上マケドニア地方リュンケスティスの出身の貴族である。そのためリュンケスティスのアレクサンドロス、あるいはリュンケステスと呼ばれる。ユスティヌスは一か所で彼をアレクサンドロス大王の兄弟と誤って呼んだが、ほかの箇所では正しく記している。富裕で有力な家に生まれ、ヘロメネスとアッラバイオスという二人の兄弟がいた。
紀元前336年、マケドニア王ピリッポス2世が暗殺されたとき、この三兄弟には事件への関与の疑いがかけられた。一族はパウサニアスと組んで王を殺し、ペルディッカス3世の子で正統な後継者とされるアミュンタス4世を王位に就けようとしたと告発されたという。即位したアレクサンドロス大王は関与者を処刑したが、リュンケスティスのアレクサンドロスだけは赦された。彼が最初に大王を王として礼をもって迎えたからである。兄弟のヘロメネスとアッラバイオスは陰謀の罪で処刑された。彼の助命には、将軍アンティパトロスの娘婿(あるいは名付け子ともされる)であったことも有利に働いた。新王にはアンティパトロスの支持が切実に必要だったのである。
赦されたのみならず、大王は彼を友とし、高い地位に引き上げた。まずトラキアで軍の指揮を任され、のちにテッサリア騎兵の指揮官となって東方遠征に従った。紀元前334年、大王がパセリスに滞在していたころ、彼がペルシア王ダレイオス3世と密かに文通しているという知らせが届いた。大金と引き換えに大王を殺す約束がなされたというのである。ダレイオスの手紙を運んだ者がパルメニオンに捕らえられて大王の前に引き出され、裏切りは証明されたとみなされた。しかし大王は、マケドニア摂政アンティパトロスの反感を買うことを恐れて処刑を避け、彼を職から解いて拘禁するにとどめた。
こうして彼は三年のあいだ、アジアで軍とともに連れ回された。紀元前330年、フィロタスが同様の罪で処刑されると、アタッリアスの議論に導かれたマケドニア人たちは、リュンケスティスのアレクサンドロスも同じく裁いて罰するよう求めた。大王は折れたが、長い拘禁のためか彼は自らの弁明ができず、ドランギアナの都プロプタシアで処刑された。当初の動機は、かつて自分の一族のものであったマケドニアの王位を手に入れることにあったとされる。
没後も、その影は大王の記憶につきまとったとされる。ユスティヌスは、大王の死が暗殺だったという話にからめて、アンティパトロスが名付け子らの処刑を理由に陰謀を企てたと書いたが、この話は事実ではないとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ベッソス (紀元前329年没)
- Kidinnu (紀元前329)
- プラクシテレス (紀元前 329年)
- ペルシスのアリババザネ (紀元前329)
- アルケストラトス (紀元前 329年)
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