伝記
ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ドブロリューボフは、1836年2月5日、ニジニ・ノヴゴロドに貧しい司祭の息子として生まれたロシア帝国の文芸評論家・社会批評家である。詩人、ジャーナリストでもあり、ロシアの革命運動の中心的な人物の一人に数えられる。最初の教育は母が行い、3歳のときにクルイロフの『寓話』を暗誦できたという。乳母のナタリヤからは、おとぎ話や民話、民謡を聞かされて育った。8歳からは土地の神学校の青年教師について、ロシア語文法、ラテン語、ギリシャ語、宗教詩、地理などを学んだ。11歳でニジニ・ノヴゴロドの初等神学校の最終学年に編入され、翌年には神学校の文学科に入り、ロシアや外国の文学と芸術、歴史、哲学、心理学、論理学の研究に熱中した。教師たちは彼を神童と見なし、家では父の蔵書に囲まれて科学や芸術の本を読みふけった。13歳でホラティウスの詩を翻訳し、県内の俚諺や民話を集め、詩や散文を綴り、脚本まで書くという早熟ぶりだった。
1853年、17歳のとき、神学校を卒業する1年前に退学して、ペテルブルクの教育大学に入学した。学長や大学当局の経営上の乱脈や職権濫用を教育省次官に訴え、1855年秋からは手書きの非合法新聞『噂』で教育省の行政や専制政治を糾弾した。これが社会問題との最初の接触になったという。在学中には、地下の民主主義サークルを組織し、反動的な教育行政に対する学生たちの闘いを率いた。1854年のグレチ50歳の誕生日に寄せた詩や、1855年のニコライ1世の死にあたって書いた頌詩は、写しが学外にも出回り、専制への敵意を示すものとなった。やがて両親を相次いで亡くし、弟妹たちの面倒を見る立場に立った。家庭教師や翻訳で家計を支え、勉強を続けたが、過重な仕事と心労は健康をむしばんだ。放校や流刑の威嚇を受けながらも最優秀の成績で高等学校教頭の資格を得て卒業したが、学長の妨害で教職には就けなかった。
1856年に出会った批評家チェルヌイシェフスキーに認められ、詩人ネクラーソフの雑誌『同時代』に寄稿するようになり、同人として迎えられた。1857年6月に教育大学を卒業すると正式に編集部に加わり、まもなく書評欄の責任者となった。さらに諷刺欄『汽笛』を設けて主筆・編集者を務め、ツルゲーネフなどの自由主義者や農奴制の擁護者への論難を始めた。以後の数年間に重要な批評論文を続けて発表し、ゴンチャロフの小説『オブローモフ』を分析した『オブローモフ主義とは何か?』(1859年)や、『闇の王国の中の一条の光』(1860年)、『その日はいつ来るか?』(1860年)が知られている。
過労で結核を病み、1860年5月、友人たちに懇願されてドイツ、スイス、フランス、イタリアへ療養に出かけた。とくにイタリアには半年以上滞在し、ガリバルディが率いる国民解放運動を目にして、一連の論文の材料にした。しかし病は根治せず、1861年の夏にロシアへ戻って激務を再開したが、秋に病床に就き、11月29日に25歳の短い生涯を閉じた。遺体は、ペテルブルクのヴォルコヴォ墓地に、ベリンスキーの隣に葬られた。マルクスやレーニンにとっても、文学上の英雄だったと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- アーサー・ヒュー・クラフ (1861年没)
- ハインリヒ・マルシュナー (1861年没)
- カロル・リピンスキ (1861年没)
- Peter Georg Bang (1861年没)
- Jorge Cordova (1861年没)
同じ地域に関係する人物
- ドメニコ・トレジーニ (1734年没)
- エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃) (1873年没)
- ゲオルク・アウグスト・ツー・メクレンブルク (1876年没)
- ニコライ・ザレンバ (1879年没)
- アンドレイ・マルコフ (1922年没)