伝記
エゼルウォルド(エセルウォルド)は、ウェセックス王家の王子(エセリング)で、902年12月13日頃に没したとされる人物である。865年から871年までウェセックス王だったエゼルレッド1世の、知られている二人の息子のうち弟にあたる。兄はエゼルヘルムという。父王がデーン人ヴァイキングの侵攻と戦って没したとき、二人はまだ幼かった。
当時のウェセックスは、9世紀前半にマーシアに代わって南イングランドで優位に立った王国だった。820年代にエグバート王がケント、サリー、サセックス、エセックスを征服し、その子エゼルウルフが839年に跡を継いだ。エゼルウルフは858年に没し、4人の息子が順に王位に就いた。エゼルバルドは860年に、エゼルバートは865年に没し、エゼルレッドが即位した。同じ年にヴァイキングの大軍勢が侵攻し、5年のうちにノーサンブリアとイースト・アングリアを征服した。870年末にウェセックスにも侵入し、871年初めにはエゼルレッドとアルフレッドの軍と4度続けて戦い、最後の2度はウェセックスが敗れた。エゼルレッドは復活祭の直後に没し、幼い息子たちが残された。この時代には長子相続は確立しておらず、王は成人であるべきだとも考えられていたため、弟のアルフレッドが跡を継いだ。アルフレッドは大王と呼ばれ、878年のエディントンの戦いで決定的な勝利を収めた。
エゼルウォルドの生い立ちについては、ほとんどわかっていない。母は、868年に勅許状に王妃として署名したウルフスリスだったと考えられている。エゼルウォルドと兄のエゼルヘルムは、880年代のアルフレッドの遺言書に初めて記録される。エゼルヘルムはその後の記録がなく、まもなく没したとみられる。アルフレッドの死より前のエゼルウォルドの記録は、890年代のものと思われる勅許状の証人としての署名だけである。
871年のエゼルレッドの死後、その息子たちの支持者は、甥たちのものであるはずの財産をアルフレッドが手元に置いていると不満を述べた。アルフレッドは遺言書の前文でこれに弁明している。争いの対象は、父エゼルウルフの遺言で残された財産だった。エゼルウルフは、存命の4人の息子のうち3人、エゼルバルド、エゼルレッド、アルフレッドに財産を共同で遺し、最も長く生きた者がすべてを相続するよう定めていた。865年にエゼルレッドが王位を継ぐと、アルフレッドは財産の分割を求めたが、エゼルレッドは拒み、自分の死後にアルフレッドに遺すと申し出て、アルフレッドも同意した。のちにヴァイキングの侵攻と子らの養育の必要から、取り決めは改められた。
899年にアルフレッドが没すると、エゼルウォルドは、アルフレッドの息子エドワード(長兄王)と王位を争った。エゼルウォルドは年長のエセリングとして強い主張を持っていた。軍を集めようとしたが、エドワードと戦えるだけの支持を得られず、ヴァイキングが支配するノーサンブリアへ逃れて王として受け入れられた。901年か902年には艦隊でエセックスへ渡り、そこでも王と認められた。翌年、イースト・アングリアのデーン人を説得して、エドワードの領地であるウェセックスとマーシアを攻撃させた。エドワードは報復としてイースト・アングリアを襲い、引き揚げる際にケントの兵が残ってデーン人と戦った。これがホルムの戦いで、902年12月13日頃のこととされる。デーン人が勝ったが大きな損害を出し、エゼルウォルドも戦死した。これによってエドワードの王位への挑戦は終わった。
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