伝記
ユルバン・ジャン・ジョセフ・ルヴェリエは、1811年3月11日にフランス西部マンシュ県のサン=ローで生まれた数学者であり、天文学者である。未発見だった海王星の位置を計算によって予測したことで知られる。ささやかな中産階級の家に生まれ、故郷の学校で8年間学んだ後、カーンの王立コレージュで数学を学んだ。数学の才能を信じた父は、パリの予備校に通わせる費用のために家を売ったという。パリのルイ=ル=グラン校を経て、1831年にエコール・ポリテクニークに入学し、2年後に8番の成績で卒業して、煙草専売の行政に技師として勤めた。しかし1835年に辞めて科学者の道を選び、まずゲイ=リュサックの化学研究室で働いた。やがて天文学、とくに天体力学に専攻を移した。
1837年にエコール・ポリテクニークで測地学、天文学、機械の復習教師の職を得て、位置天文学と天体力学を専門にした。同じ年に、かつての師の娘と結婚し、3人の子をもうけた。1839年にはアカデミー・デ・シアンスに、惑星軌道の長期的な変化についての最初の論文を提出している。天王星の軌道運動の観測結果は、ケプラーの法則とニュートン力学から予言される運動と食い違っていた。パリ天文台長のフランソワ・アラゴの勧めで、ルヴェリエは1844年からこの矛盾を説明するための計算にとりかかった。同時期にイギリスのアダムズも同じ計算をしていたが、互いに相手の研究については知らなかった。11か月の計算の後、1846年にアカデミーで発表し、8月31日に計算した結果を、9月18日にベルリン天文台のガレに手紙で連絡した。
9月23日に手紙を受け取ったガレは、その晩の観測でルヴェリエの予測から1度以内の位置に新惑星らしい天体を発見し、その後の2日間の観測で確認した。今日、海王星の発見者はルヴェリエ、アダムズ、ガレの三者とされるが、三者の貢献をどう評価するかについては議論があった。ロンドンの王立協会は同じ年に彼にコプリ・メダルを贈り、1847年には外国人会員にも選んだ。1846年にはアカデミー・デ・シアンスの会員に選出され、ルヴェリエのためにパリ大学理学部に天体力学の講座が設けられた。のちに水星の近日点移動を他の惑星の影響だと主張して、バルカンという仮の名の惑星を想定したが、数多くの観測報告は誤りだった。この運動は1915年にアインシュタインが一般相対性理論で説明し、1919年5月29日の日食観測でエディントンが立証した。
1854年にパリ天文台長となり、1870年まで務め、1873年から他界する1877年まで再びその職にあった。クリミア戦争の際、黒海の暴風で英仏艦隊が壊滅的な被害を受けると、陸軍大臣から嵐を予測できるかの調査を命じられ、ヨーロッパ中の研究者に気象観測結果の提供を求めた。電報で嵐の位置と進行方向を知れば接近を警告できると結論し、1855年2月にナポレオン3世へ組織的な気象観測と通報の計画を提出した。1856年7月からは約30地点の気象報告の毎日の発行を始め、1863年8月には等圧線が描かれた天気図の発行と暴風警報業務を始めて、フランスは天気図を毎日発行する世界で初めての国となった。パリ天文台の正面玄関に銅像があり、月と火星のクレーターや海王星の環にも名が付いている。1877年9月23日にパリで没した。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット (1877年没)
- フアン・マヌエル・デ・ロサス (1877年没)
- ジョゼ・デ・アレンカール (1877年没)
- エルンスト・ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハ (1877年没)
- マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1805-1877) (1877年没)
同じ地域に関係する人物
- サラーフッディーン・アル=ビータール (1980年没)
- フランソワ=アンドレ・ヴァンサン (1816年没)
- ルイ1世 (ヌヴェール伯) (1322年没)
- ホアン・クリソストモ・アリアーガ (1826年没)
- ジャン・キュニョー (1933年没)