伝記
フアン・マヌエル・デ・ロサスは、1793年3月30日にブエノスアイレスで生まれたアルゼンチンの政治家、軍人、カウディーリョである。同国史上で、フアン・ペロンと並んで評価の分かれる指導者とされる。ロサス家は祖父の代にスペインのブルゴスから移住した家系で、父は官僚でありながら、ブエノスアイレス南部の草原地帯で守備隊として先住民との戦いに従事した。父は武勇に優れ、先住民のあいだにもロサスという姓は勇猛な人物として知られていたという。母方には大地主が、父方には貴族やスペインの植民地行政官がいる裕福な家で、彼は市内に生まれたものの、幼いころは祖父の牧場で黒人の召使いを従えて乗馬と投げ縄を覚え、友好的な先住民から言葉を教わり、パンパに根づいたアンダルシア風のギターも習得した。1806年には、少年ながらブエノスアイレスの民兵隊に加わった。
成人してから事業を興し、牧場や肉の塩漬け工場を一代で築いて財産家となった。その資産で私兵を雇い、貧しい人々に施しもした。財産に加え、容貌や嘘をつかない性格、州内一の「馬上の人」としての素質によりカリスマとなり、「青い眼のガウチョ」と呼ばれて、ガウチョや黒人といった底辺の人々からも尊敬された。ブラジル戦争のさなか、州権論の立場から大統領の中央集権的な首都令を批判して、連邦派の統領となった。連邦派とは、ブエノスアイレスの利権を取り上げようとする中央集権主義者に抵抗する保守派のことである。1829年には統一派で、いとこでもあった人物を打倒して、ブエノスアイレス州知事となった。全土の混乱を鎮めるため、連邦派の沿岸諸州や内陸部のカウディーリョと同盟を結び、統一派の中央集権同盟を打倒して、内戦を小康状態に導いた。
最初の任期(1829年から1832年)は権威主義的ではあったが、新しい村の建設や商法典の改革、先住民の首長との和平条約など、進歩的とも言える施策を行った。1832年に任期が切れて退陣すると、私兵を率いて軍事行動を起こし、先住民をブエノスアイレス州の領域からほぼ追い出した。このとき約6,000人の先住民が殺されたとされる。1835年に州知事に返り咲くと、17年間にわたる独裁政治を行い、反対派や自由主義者を弾圧した。報道は統制され、個人崇拝が強まり、弾圧のための組織マソルカが多くの反対者を殺害したとされる。保護貿易政策をめぐる英仏やウルグアイとの戦争を乗り越え、1850年には英仏両国を撤退に追いやった。この時期、フランスに亡命していた解放者サン・マルティンから、サーベルを贈られている。ところが1852年に、腹心だった人物が反乱を起こし、ウルキーサに敗れて、彼はイギリス船に乗って娘とともに亡命した。後の為政者とは異なり、海外に資産を残さなかったため、サウサンプトンで困窮のうちに1877年3月14日に死去した。
失脚後、自由主義者の政権は長らく彼を「独裁王」「暴君」「南米のネロ」と呼び、遺体はアルゼンチンへの入国を拒まれてきた。しかし1930年代の保守思想の復権のなかで再評価の機運が生じ、1982年のマルビナス戦争の終結後には、遺体が埋葬され、政府によって公式に再評価された。現在も評価は二つに分かれ、血に塗れた独裁者とする見方と、外国の干渉に耐えた偉大な愛国者とする見方があり、後者は「ロサス主義」と呼ばれる。現行の20ペソ紙幣には、彼の肖像が使われている。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・フォン・ヴランゲル (1877年没)
- ヨハン・ヘルベック (1877年没)
- フィリッポ・パルラトーレ (1877年没)
- ブリガム・ヤング (1877年没)
- オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1846-1877) (1877年没)
同じ地域に関係する人物
- デズモンド・バグリィ (1983年没)
- ヘンリー・シュラプネル (1842年没)
- ジェームズ・ジョーンズ (小説家) (1977年没)
- フレデリック・フリート (1965年没)
- Stuart Williams (2013年没)