伝記
スペウシッポスは、古代ギリシアのアテナイの哲学者、数学者である。紀元前407年ごろ(紀元前408年ごろとも)に生まれ、紀元前339年(339/8年とも)に没した。父はエウリュメドン、母はプラトンの姉妹ポトネで、ミュッリヌス区の出身であった。つまり、アカデメイアを開いたプラトンの甥にあたる。偽作とされるプラトンの第13書簡は、彼が自分の姪(母の孫娘)と結婚したと述べている。
若いころの消息はほとんど伝わらないが、叔父プラトンの三度目のシュラクサイ行きに同行し、そこで才能と思慮深さを示した。とりわけディオンとは親しい間柄を保ったという。批判的な詩人ティモンでさえ、その人柄の良さは認めている。一方で、怒りっぽい、貪欲だ、放蕩だといった噂も伝わるが、これらの出どころは、ディオンに追放された小ディオニュシオスの偽作とされる書簡の悪口ぐらいで、あまりあてにならないと考えられている。この追放にはスペウシッポスも協力したとされる。
プラトンが没すると、後継者に選ばれて第2代のアカデメイア学頭となった。就任は紀元前347年ごろ(348年ごろとも)、六十歳に近いころで、以後およそ八年間、紀元前339年ごろまでその地位にあった。スペウシッポスが学頭となるとアリストテレスはアカデメイアを去ったといわれる。アリストテレスの「今の人々にとっては数学的諸学が哲学であることになってしまった」という言葉は、スペウシッポスに向けられたものだともいわれる。
スペウシッポスはしばしばプラトンの教えから離れた。イデア論を退け、プラトンが区別した理念的な数と数学的な数のうち、理念的な数を否定し、したがってイデアも認めなかった。プラトンが善を究極の原理と同一視したのに対し、善は二次的なものにすぎないと主張した。実体を数、大きさ、魂などの種類に分け、それぞれに別の原理を立て、その出発点として絶対的な「一」を置いた。こうして実体の種類は増えたが、「一」を共通の形相的原理とし、多数性と多様性を各実体に共通する根源の要素と考えていたらしい。アリストテレスの批判は、この修正に彼がどれほど不満だったかを示している。また、数学的対象を第一義的な実在とみなして、ピタゴラス学派や数論に傾いた。プラトン主義とピタゴラス学派の調和を試みたともされる。倫理学では、快楽はそれ自体が悪であると説いた。認識論では、あるものを定義するには、それを他のすべてから分けるあらゆる違いを知らなければならないと考えた。理性による認識と感覚による知覚を区別したうえで、理性的な真理にあずかる知覚によって、知覚が知識へ高められうることを示そうとした。諸学問に共通するものやその結びつきに関心を持ち、プラトンが基礎を築いた哲学の三分類、すなわち問答法、倫理学、自然学を発展させた。芸術の技量は感覚的な活動ではなく、対象を誤りなく見分ける力、つまり理性的な知覚に基づくと論じた。多くの対話篇や注解を著し、ディオゲネス・ラエルティオスがその題名の一部を挙げているが、現存する著作は断片的であり、断片と証言の標準的な校訂本としてはレオナルド・タランの1982年の研究書がある。
晩年は身体の麻痺に苦しみ、中風で亡くなったといわれる。長く病んだ末の死だったらしく、卒中の後に学頭の座をクセノクラテスに譲ったとされる。アカデメイアの学頭は第3代のクセノクラテスに引き継がれた。