伝記
アブデュルアズィズは、1830年2月にイスタンブールで生まれたオスマン帝国の第32代皇帝(在位1861年〜1876年)である。第30代皇帝マフムト2世と、コーカサス出身のペルテヴニヤル・スルタンの子で、第31代皇帝アブデュルメジト1世の弟にあたる。子にアブデュルメジト2世がいる。マフムト2世の時代にすでに皇子を幽閉する「黄金の鳥籠」の制度は廃止されていたため、彼は自由に暮らし、フランス語を学ぶなどして過ごした。オスマン風の教育を受けたが、西洋が達成していた物質的な進歩を熱心に賛美した。文学への関心に加えて古典音楽の作曲もこなし、帝国の記録にも特別な関心を持っていた。
1861年に兄の後を継いで即位した。兄の時代に始まっていた近代化政策を引き継ぎ、治世の前半は大宰相のフアト・パシャとアーリ・パシャの二人が改革を推し進めた。1863年にはオスマン帝国で初めて切手が発行され、報道に関する規則(1864年)や新たな行政区画(1864年)、地方議会、裁判所、国務院(1868年)が設けられた。1869年にはメジェッレと呼ばれる民法典が制定され、宗教や民族に関係なく市民権を得られる国籍法も定められた。教育面では、近代的な大学(1861年)、工業学校(1865年)、ガラタサライ学校(1868年)、女性教師を養成する学校(1870年)、鉱山学校(1874年)を開き、1869年の公教育法で全土に初等中等の学校が設置された。1875年には万国郵便連合に加わっている。
1867年には、パリで開催中の万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国の皇帝として史上初の西欧歴訪を行い、ナポレオン3世やヴィクトリア女王と会った。ロンドンではヴィクトリア女王からガーター勲章を贈られている。このとき列強の装甲艦に魅了され、のちに海軍力の増強に力を入れたため、軍艦の保有数だけなら世界有数の海軍となった。また、パリ、ロンドン、ウィーンの博物館を見学して感銘を受け、帰国後にイスタンブール考古学博物館を設立させた。
しかし、帝国の財政が悪化しているのに宮殿の造営などで浪費を重ね、贅沢な気晴らしと賄賂を求めてエジプトなどを訪れた。艦船の多くは外国製の中古で、艦長もお雇い外国人だったため技術は根付かず、購入と維持の費用が財政を圧迫した。これらは公債で賄われ、1873年のアナトリアの飢饉とヨーロッパの不況も重なって、1875年にオスマン帝国は事実上の破産状態に陥った。増税への反発でヘルツェゴビナやブルガリアで反乱が起きた。1871年にアーリ・パシャが死ぬと、忠臣ネディム・パシャを大宰相にして強権的になり、憲法や議会の創設には否定的だったため、新オスマン人と呼ばれる若い知識人を中心に反専制運動が広がった。ナムク・ケマルの戯曲『祖国またはシストリア』は1872年に発禁とされ、作者はキプロスに追放された。
1876年、神学生らの騒擾をきっかけに、憲政樹立を主張するミドハト・パシャらがクーデターを起こして彼を廃位し、甥のムラト5世が即位した。幽閉されたのち、数日後の6月4日に亡くなった。自殺とされるが、他殺説も当時から囁かれ、のちのアブデュルハミト2世の時代の調査で他殺と結論されたという。巨漢で、鳥や野生動物を異常なほど愛玩し、大金を使ってオウムや珍獣を取り寄せた。
同じ年に亡くなった人物
- ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ (1876年没)
- セヴェリン・ゴシチンスキ (1876年没)
- アントワーヌ・バラール (1876年没)
- イザベル・マリア・デ・ブラガンサ (1876年没)
- ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ (1876年没)
同じ地域に関係する人物
- コンスタンティノス10世ドゥーカス (1067年没)
- ソコルル・メフメト・パシャ (1579年没)
- Naum Veqilharxhi (1846年没)
- Constantine Leichoudes (1063年没)
- Wojciech Bobowski (1675年没)