伝記
ロマヌスは、9世紀に生まれたローマ教皇で、897年8月から同年11月まで在位した。没年は分かっていない。教皇史では、ステファヌス6世の後を継ぎ、テオドルス2世に先立つ人物にあたる。生まれた年は不明で、イタリア半島中部のチヴィタ・カステッラーナに近いガッレーゼの出身である。父の名はコンスタンティヌスといい、教皇マリヌス1世と同じ町の出であったことから、その甥だったという説もある。経歴のうち確かなことは、867年からローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の司祭枢機卿を務めていたことぐらいである。
897年1月、教皇ステファヌス6世は、盟友であるスポレート公ランベルトの政敵だった先代教皇フォルモススの遺体を掘り起こし、偽誓や司教の転任を禁じる教会法の違反、教皇の座への野心の罪で裁いた。有罪の後、フォルモススの行為と叙階はすべて取り消され、遺体は共同墓地に葬られたのち、テヴェレ川に投げ込まれた。これを受けてフォルモススの支持者たちが蜂起し、裁判から7か月後にステファヌス6世は廃位されて、獄中で死んだ。その後継の教皇に選ばれたのがロマヌスであり、選出は897年の7月か8月ごろとされる。ステファヌス6世の末路を思えば、後を継ぐことは決して楽な役目ではなかったと考えられている。
ロマヌスは一般にフォルモスス寄りとされ、先代の決定と勅令をすべて取り消した。これについては、15世紀の歴史家プラティナが、こうした教皇たちは前任者の記憶と名誉を消すことしか学ばなかった、と批判した。在位中の情報はわずかで、確かなものとしては、グラードの大司教ヴィタリスに教皇代理を表すパリウムを授け、グラードの司教座に特権を与えたことがある。また、ルシヨンのエルヌとスペインのジローナの司教区について、司教の要請に応じて司教の所有地と承認した。ジローナに関する別の特権は、後世に偽造されたものとする歴史家もいる。10世紀の年代記作者フロドアールは、この短い治世を徳のあるものと見ている。在位の長さは、3か月ほどとも4か月ほどともいわれ、選出や即位の正確な日付も伝わっていない。
897年11月、その在位は終わった。古い『教皇の書』の更訂本の一つには、「修道士になった」と記されており、これは教皇が退位させられ、しばしば修道院に閉じ込められたときに使われる言い方である。ただ、真偽は不明である。退位が強制されたものだとすれば、ステファヌス6世派が退位させたとする説と、フォルモススの名誉をもっと積極的に回復する人物を教皇に据えるために、フォルモスス派が退位させたとする説があり、両者は対立している。没年は不明だが、退位した897年11月に死去したともされ、11月14日ごろとする記述もある。毒殺されたとする説もあれば、殺されて遺体を隠されたのではないかという疑問もあるが、真相は分からない。
後を継いだテオドルス2世は、在位20日のうちにフォルモススの遺体を葬り直し、死体裁判を無効とする教会会議を開いた。これはヨハネス9世に受け継がれたが、のちにセルギウス3世が取り消し、フォルモススをめぐる争いは10年以上続いた。
同じ年に亡くなった人物
- ブラスラヴ (897年)
- Buhturi (897年)
- 趙州従諗 (897年没)
- ステファヌス6世 (ローマ教皇) (897年没)
- 真聖女王 (897年没)
同じ地域に関係する人物
- ボニファティウス8世 (ローマ教皇) (1303年没)
- カリストゥス3世 (ローマ教皇) (1458年没)
- デキムス・ユニウス・ブルトゥス・カッライクス (紀元前113年没)
- エドアルド・アマルディ (1989年没)
- アンヘル・サンス・ブリス (1980年没)