伝記
ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、1796年7月16日にパリのバック通りで生まれ、1875年2月22日に没した19世紀フランスの画家である。バルビゾン派の七星の一人で、印象派への橋渡しをした画家と評される。生涯独身を貫いた。詩情あふれる森や湖の風景画で知られるが、『真珠の女』のような人物画にも名作がある。父はかつら職人、母は帽子屋で、両親は母が勤めていた帽子店を買い取って成功させ、パリの流行に敏感な客が集まる店となった。コローは3人きょうだいの2番目で、他の多くの画家と違い、生涯にわたって経済的な苦境を知らなかった。ルーアンの学校に奨学生として入ったが成績が振るわず寄宿学校に移り、学生時代は賞の候補にすら挙がらなかったという。19歳のころは、恥ずかしがりで不器用な大柄の青年で、母を慕い、父の言葉に震えるような息子だったと伝えられる。
父の勧めで布地商のもとに弟子入りしたが、商売を嫌い、それでも26歳まで商人の修業を続けた。のちに「父に、商売と自分は相容れず、離婚するつもりだと言った」と語ったという。1822年、26歳でようやく父の許しを得て画家を志した。前年に妹が亡くなっており、両親が妹のために用意していた持参金を、コローのために使うことを許したのである。当時、画家を志すには遅いスタートだった。最初の師は、同じ1796年生まれの風景画家ミシャロンだったが、数か月後に26歳で亡くなり、コローはその師で当時の風景画の第一人者ベルタンに師事した。ミシャロンは彼に、目の前にあるものを忠実に描くよう助言し、コローは後年も正確さを大切にしたという。
コローは生涯に3度イタリアを旅した。1回目は最も長く、1825年9月から1828年秋にかけて、ローマとその近郊を中心に、ヴェネツィアなどにも滞在した。このとき戸外で描いた習作風景には、色彩感覚や構図に近代的な感覚を見せるものが多く、後の印象派の世代に影響を与えた。1834年と1843年にも、それぞれ半年ほど滞在している。フランス各地も精力的に旅し、パリ西郊のヴィル=ダヴレーには父が別荘を買ったため、しばしば滞在し、フォンテーヌブローの森でも1820年代から制作した。官展(サロン)には1827年に『ナルニの橋』などを出して以来、晩年まで出品を続け、1848年には審査員に任命された。1855年のパリ万国博覧会に6点を出品してグランプリを得た。
作風は、神話や歴史の背景としての風景ではなく、イタリアやフランス各地のありふれた風景を詩情ゆたかに描くものだった。春から夏に戸外で描き始め、秋から冬にアトリエで仕上げるのが基本で、後半生には画面全体が銀灰色の靄に包まれたような独特の色調を示した。そのいくつかには『思い出』という題を与えている。代表作に『モルトフォンテーヌの思い出』(1864年)がある。人物画の『真珠の女』(1868年から1870年ごろ)は没するまでアトリエに置かれ、「コローのモナ・リザ」とも称される。晩年には大家として認められ、ドーミエなど貧しい画家を援助して、多くの画家に慕われ、1875年2月22日に病で没するまで各地への旅行と制作を続けた。ピサロやモネ、セザンヌ、ピカソら後世の美術家に影響を与え、日本でも浅井忠らが影響を受けた。
同じ年に亡くなった人物
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- Julian Castro (1875年没)
- チャールズ・フィニー (1875年没)
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同じ地域に関係する人物
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- アレクシス・グラノフスキー (1937年没)
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