伝記
藤原基経は、平安時代前期の公卿である。藤原北家の中納言・藤原長良の三男として生まれ、891年に没した。権力者であった叔父の藤原良房には男子がなく、その優れた資質を見込まれて養子となった。養子となった時期は、元服した仁寿元年(851年)の前後とする通説のほか、応天門の変の起こった貞観8年(866年)以降とする意見もあり、はっきりしない。良房の死後、清和・陽成・光孝・宇多の四代にわたり朝廷の実権を握り、光孝天皇・宇多天皇の時期の執政は日本史上初の関白にあたるとされる。
仁寿元年(851年)に東宮の内殿で元服し、仁寿殿で文徳天皇に拝謁した。臣下が宮中で元服するのは極めて異例で、藤原緒嗣の元服以来の2例目だったという。仁寿4年(854年)には19歳で従五位下・侍従に叙任された。これは長兄の国経や良房よりも早く、異例の抜擢であり、早くから良房の養子であったためとみる見方が一般的である。天安2年(858年)には同年齢の従兄弟・藤原常行とともに蔵人頭に抜擢され、貞観6年(864年)には常行と同時に参議となって公卿に列した。このころは常行にわずかに先んじられており、父の長良が没したのを機に常行が重んじられたためとみられる。
転機は貞観8年(866年)の応天門の変であった。応天門が焼失すると、大納言・伴善男が左大臣・源信を放火の犯人だと誣告した。右大臣・藤原良相は、左近衛中将だった基経に信の捕縛を命じたが、基経は事が重大であるとして、太政大臣・良房の承諾なしには応じられないと良房に事情を告げた。良房は清和天皇に奏上して源信を弁護し、信は無実となった。この行動によって基経に対する良房の評価と信頼が一挙に高まり、良相に代わって後継者となったとする考えがある。のちに伴善男が真犯人とされて流罪となり、連座した大伴氏・紀氏が処罰された。同年12月、基経は末席の参議から7人の先任者を超えて従三位・中納言となった。同じ月には妹の高子が清和天皇の女御となり、産んだ貞明親王は、生後2か月で皇太子に立てられた。
貞観14年(872年)、良房が重態となるなかで基経は右大臣に任じられ、良房の築いた権力基盤を継承した。良房の死に際しては、猶子ながら父子の礼で喪に服した。貞観18年(876年)、清和天皇が9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位すると、伯父の基経は摂政に任じられた。二度辞退したが清和上皇が許さなかったという。太政大臣への就任も求められたが、これも辞退した。元慶3年(879年)には陽成天皇に『御注孝経』や『論語』を講読させて帝王教育を始めた。天皇が病気になれば名僧に修法させ、自らも平癒を祈願して春日社へ奉幣するなど、献身的に尽くした様子がうかがえる。政治面では、元慶2年(878年)に出羽国で起きた蝦夷の俘囚の反乱(元慶の乱)を翌年までに鎮め、約50年ぶりに班田収授を実施し、『日本文徳天皇実録』の編纂も完成させた。
だが陽成天皇との関係は次第にきしんだ。元慶4年(880年)に清和上皇が没すると、天皇は基経を太政大臣に任じようとしたが、基経は5度も辞退して自邸に引き籠もり、政務が滞った。元慶6年(882年)に天皇が元服すると摂政の辞職を申し出、堀河院に籠もった。元慶8年(884年)、陽成天皇は基経に譲位を申し出たが、実態としては基経が退位に追いやったと考えられる。基経はまず出家していた恒貞親王に打診して断られ、仁明天皇の第三皇子で、母方の従兄弟にあたる時康親王を新帝に選んだ。廷議で左大臣・源融が自らも資格があると言い出すと、基経は姓を賜った者が即位した例はないと退けたという。
同じ年に亡くなった人物
- 蛇の目のシグルズ (891年)
- アル=ムワッファク (891年)
- ステファヌス5世 (ローマ教皇) (891年没)
- ムティミル (891年)
- フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (891年没)
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