HISTORICAL PERSON · 891年没

フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)

東ローマ帝国の学者で、858年にコンスタンティノポリス総主教となった。フィリオクェに反対し、キュリロスとメトディオスの宣教を後援した。古典の書評集を編み、マケドニア朝ルネサンスの先駆けとなった。

生涯
891年没
死亡地
アルメニア共和国(ゲガルクニク地方 / アルメニア)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
アルメニア共和国(ゲガルクニク地方)

伝記

フォティオス1世は、9世紀の東ローマ帝国を代表する知識人であり、官僚、聖職者である。コンスタンティノポリス総主教を858年から867年と877年から886年の二度務めた。生年は815年ごろとも820年ごろともされ、没年も891年ごろとする説と893年2月6日とする説がある。正教会では聖人として敬われ、記憶日は2月6日である。

コンスタンティノポリスの名門に生まれた。母は前総主教の姉妹で、大叔父にあたる聖タラシオスも総主教を務めた人物であった。814年に始まる第二次イコノクラスム(聖像破壊運動)のあいだ、聖像を擁護する有力者だった父セルギオスの一家は迫害を受けたが、842年に聖像が復活して名誉を回復したという。どのように教育を受けたかは分からないが、神学、歴史、文法、哲学、法学、自然科学、医学にまで及ぶ蔵書が、その博識を物語っている。少年のころは修道生活に心が傾いたが、結局は俗人としての道を選び、851年ごろに皇帝直属の尚書局長官となった。845年ごろに、アッバース朝の宮廷へ使節として派遣されたとも伝えられる。

858年、皇帝ミカエル3世は、総主教イグナティオスを追放して、その後任に、まだ聖職者でなかった在俗のフォティオスを任命した。俗人が総主教にふさわしいかどうかをめぐって論争が起こり、イグナティオスを支持する修道士たちはローマ教皇と手を結んで激しく反発した。863年には教皇ニコラウス1世がラテラノの会議でフォティオスの廃位を宣言した。これに対して867年、皇帝が主宰する教会会議が教皇を破門し、ローマ教会が唱える「子からも発出する」という教義(フィリオクェ)を異端と決めた。863年から867年までの東西教会の対立は、のちに「フォティオスの分離」と呼ばれる。同年のクーデターでバシレイオス1世が皇帝になると、ローマとの関係改善を狙ってフォティオスは罷免され、イグナティオスが再任され、869年から870年の会議でフォティオスの追放が決められた。

しかしブルガリア教会の帰属問題などでローマとの関係は好転せず、バシレイオス1世は877年にフォティオスを総主教に復帰させ、皇子たちの教育も任せた。879年から880年にかけての会議では、教皇の特使も復権を認め、対立は終結した。なお、ローマ側とギリシア側では、どの会議を正当とみなすかが異なる。フォティオスはまた、キュリロスとメトディオスによるスラヴ人への宣教を支援した。886年にバシレイオス1世が没し、教え子であった子のレオーン6世が即位すると、父と不和だった新帝は、父の協力者フォティオスをアルメニアへ追放し、彼はそこで没したと伝えられる。

古代ギリシアの古典に精通していたことでも知られる。政敵のイグナティオス派すら驚嘆するほどの博識ぶりで、「悪魔に魂を売って知識を得たに違いない」と非難したという。彼が集めた古典に関する280冊もの書評をまとめた『図書総覧』は、彼が編んだとされる。帝国大学の教授を務めたとする資料もあるが、多くの研究者は否定し、総主教の時代にも自邸で熱心な若者たちに教えたと見る。イグナティオスとの論争では、人間には二つの魂があるという突飛な説をわざと唱えて相手を引っかけ、のちに冗談だったと認めたという逸話もある。彼が始めた古代ギリシア文化の復興は、のちのマケドニア朝ルネサンスの先駆けとされる。

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