伝記
アルタクセルクセス2世は、アケメネス朝ペルシア帝国の王で、在位は紀元前404年から紀元前358年頃までとされる(紀元前405年から359年とする記述もある)。ペルシア王のなかで最も長い治世を保ち、エジプトを失い、弟と争うなど戦乱に見舞われたが、ギリシア情勢に介入して帝国西部の支配を固めることに成功した。ギリシアの著述家は彼に「記憶力のよい」を意味する添え名ムネモンを与えている。
本名はアルサケスといい、ダレイオス2世の長男として生まれた。母はダレイオス2世の異母姉妹で、のちに王妃となるパリュサティスである。生まれたとき父はまだ王ではなかった。生年は、没時の年齢を86歳とするルキアノスや94歳とするディノンの説から紀元前453年頃か445年頃と推定される。プルタルコスによると、弟の小キュロスの気性が荒くせっかちだったのに対し、アルサケスは温和で穏やかな人物であった。両親の希望でヒュダルネスの娘スタテイラと結婚しており、のちに父がスタテイラの兄弟を処刑し、彼女まで処刑しようとしたときは、母を説得して命を救ったという。
紀元前404年、父の臨終の場で、パリュサティスは、アルサケスの誕生時に父はまだ王でなかったと述べて、溺愛するキュロスを後継にするよう迫ったと伝わる。しかし、ダレイオス2世はこれを退けて長男を後継者に指名し、キュロスはリュディア総督にとどめられた。ただし、現代の歴史家はこのプルタルコスの記述を疑い、後継者は数年前から決まっていたと考えている。こうして彼はアルタクセルクセス2世として即位した。
即位式の際、キュロスが兄の暗殺を企てたが、ティッサフェルネスの密告で露見し、母の介入で赦されたという。紀元前401年、キュロスは多数のギリシア人傭兵を集めて反乱を起こし、その年の秋、両者はクナクサの戦いで激突した。アルタクセルクセスは敗北寸前となったが、功を焦って突出したキュロスが戦死したため王位は守られた。生き残った1万人のギリシア人傭兵は降伏せず、クセノポンの『アナバシス』は彼らの帰還の旅を描く。その後、小アジアのギリシア諸都市をめぐってスパルタと戦い、ギリシア本土でペルシアの資金援助を受けた諸都市がコリントス戦争を起こしたため、小アジアで優勢だったスパルタ王アゲシラオス2世は帰国を余儀なくされた。ペルシアは途中でスパルタ側に転じ、紀元前387年に、ペルシアに有利な「大王の和約」が結ばれ、小アジアとキプロスの支配は確固たるものになった。
一方、独立したエジプトの再征服は果たせず、紀元前375年頃の遠征も失敗した。紀元前370年以降には、ダタメスら総督の反乱が起こったが、反乱側の内部対立などで鎮まった。従来、この反乱は支配体制を弱めたと考えられてきたが、近年の研究ではその証拠は見つからないという。
建築にも熱心で、スーサやエクバタナのアパダーナ宮殿を築き、アフラ・マズダーに加えてアナーヒターとミスラの恩寵にも言及した。晩年は後継争いに悩まされた。嫡出の子は3人、庶出の子は115人とされ、長男ダレイオスは父の暗殺を企てて処刑された。最終的に、オコスが兄を自殺に追い込み、父の寵愛を受けた異母兄弟も殺して後継者となった。在位46年目の紀元前358年頃に王が没すると、彼はアルタクセルクセス3世として王位を継いだ。王墓はナクシェ・ロスタムではなく、ペルセポリスにある。ギリシアの歴史家は彼を穏やかで臣民を愛する王と評する一方、残酷な一面もあり、宮廷の争いに悩んだ王としても描いた。