HISTORICAL PERSON · 紀元前559年没

カンビュセス1世

アケメネス朝のアンシャン王で、キュロス1世の子。後にペルシア帝国を築くキュロス2世の父にあたる。生前の記録は見つかっていない。

生涯
紀元前559年没
死亡地
イラン共和国(ファールス州 / パサルガダエ)
出生地
—
出典
世界地図
イラン共和国(ファールス州)

伝記

カンビュセス1世は、アケメネス朝のアンシャン王で、在位は紀元前600年ごろないし580年ごろから紀元前559年までとされる。のちにアケメネス朝を築くキュロス2世の父であり、より有名な孫のカンビュセス2世とは区別される。名前の由来は研究者の間でも定まっておらず、エラム語起源とする説と、インド北西部にいたイラン系の人々カンボージャと結びつける説がある。彼の生前に記された記録は見つかっておらず、生涯の多くはギリシアの著述家の伝えに頼っている。

出自は、アケメネス朝の始祖アカイメネスのひ孫にあたり、テイスペスの孫で、キュロス1世の息子とされる。叔父にアリアラムネス、従兄弟にアルサメスがいた。兄弟にアルックがいたとも記される。彼が率いたのは、現在のシーラーズ付近にあったエラム人の都市アンシャンの周辺に住むペルシア人の集団で、この一帯はペルシア語でパルサ、ギリシア語でペルシスと呼ばれ、かつてエラム王国の最も東にあった地域だった。彼も父も子も「アンシャン王」の称号を用いている。父の跡をいつ継いだのかは分かっていない。アッシリアの史料に見えるパルスマシュのクラシュを父のキュロス1世と同一視できればその使節が紀元前639年ごろのこととして記されるため、継承はそのころになるが、この年から確実な没年までの隔たりが大きく、この同定は年代の上で難しいと指摘されている。

ヘロドトスによれば、当時のペルシア人はメディア人に従う立場にあったという。メディア王アステュアゲスは、孫が王位を奪うという夢の告げを恐れ、娘マンダネをメディアの大貴族ではなく、家柄は良いが身分の高くない臣下のペルシア人カンビュセスに嫁がせた。彼なら脅威にならないと考えたからだとされる。ヘロドトスは彼の性格を穏やかであったと記している。二人の間に生まれたのがキュロスで、成長すると予言どおりペルシア人の王となり、祖父アステュアゲスを破って捕らえた。この話には伝説的な要素が多く、ペルシア側の宣伝による創作とみる見方もあるが、メディアとペルシアの従属関係やマンダネとの結婚は、ありえる話とみなされている。ヘロドトスは、マンダネの母をリュディアの王女アリエニスとしており、キュロスはメディアとリュディアの双方の正統な継承者にもなる。クセノポンの『キュロスの教育』にも登場するが、これはキュロスを理想の王として描く哲学的な創作で、彼をペルシア王、すなわちアンシャン王と同義に扱っている。

死については、紀元前559年に没して息子のキュロス2世が王位を継いだとするのが一般的である。一方、ダマスコスのニコラオスは、本来の名をアトラダテスといい、息子とともにアステュアゲスと戦ったペルシア国境の戦いで傷を負って死に、名誉ある埋葬を受けたと伝える。この戦いは紀元前551年ごろとされるが、没年に関する記述が食い違うため、断定はできない。アケメネス家の傍系でのちのダレイオス1世の祖父にあたるアルサメスが、彼がアンシャンで王位にあった間に「ペルシア王」だったと読める碑文がハマダーンで見つかったとされるが、後世の王か近代の偽作の可能性があり、真偽は疑われている。小さな地方の支配から大帝国へ向かうアケメネス朝の歩みの中で、彼はその橋渡しの位置に立つ王とされる。

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