HISTORICAL PERSON · 1873年没

アレッサンドロ・マンゾーニ

イタリアの詩人・作家。ミラノの伯爵家に生まれ、合理主義からカトリックへ回心し、その後の思想を決定づけた。10万リレ紙幣の裏面に肖像が使われた。

生涯
1873年没
死亡地
イタリア共和国(ミラノ県 / ミラノ)
出生地
イタリア共和国(ミラノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ミラノ県)

伝記

アレッサンドロ・マンゾーニは、1785年3月7日にミラノで生まれたイタリアの詩人、作家である。歴史小説『いいなづけ』の作者として知られ、1967年から1979年まで発行された10万リラ紙幣の裏面には肖像が採用された。母ジュリアは啓蒙思想家チェーザレ・ベッカリーアの長女で、父ピエトロは古い家柄の出であった。実の父は、ヴェッリ兄弟の一人ジョヴァンニだったのではないかともいわれる。両親は1792年に別居し、母は作家カルロ・インボナーティと暮らすためイギリスへ、のちパリへ移った。6歳で家を離れ、聖職者の運営する寄宿学校をいくつも渡り歩き、母とはめったに会えず、父とも冷ややかな関係だったようである。幼いころから文学、とくに詩に引かれ、自由や理性、無神論の理想にも傾いた。1801年にはフランス革命を称える詩「自由の勝利」を書いている。

1804年ごろから、新古典主義の詩人ヴィンチェンツォ・モンティを中心とする輪に出入りした。1803年の秋から翌春にはヴェネツィアに滞在し、ウーゴ・フォスコロらと知り合った。1805年に母とパリへ赴き、ヴォルテールや文学者クロード・フォリエルの影響を受けた。父が亡くなった1807年には、母が営む自由思想家たちの家に加わり、哲学者の集団イデオローグの人々と親交を結んだ。1806年から翌年には、新古典主義の詩『ウラニア』と、インボナーティの死を悼む哀歌を発表している。1808年にジュネーヴの銀行家の娘エンリケッタ・ブロンデルと結婚した。妻はカルヴァン派の出身であったが、カトリックに改宗し、その影響もあって、夫もまた合理主義・無神論からの回心を経験し、厳格なカトリックの信仰へ入った。この回心が、以後の彼の行動と思想を決めたといわれる。

1814年にミラノのモローネ通りの家に落ち着き、亡くなるまでそこに住み続けた。結婚生活は幸福で、長年、文学と家庭を中心とした静かな暮らしを送った。作風ははじめ古典的だったが、やがてロマン主義に転じ、高雅な言葉でキリスト教徒の心情を歌った『聖なる讃歌』を書いた。ナポレオンを悼む『五月五日』(1821年)はゲーテによってドイツ語に訳された。悲劇『カルマニョーラ伯』と『アデルキ』には部分的な美しさがあるが、舞台向きではないとされる。1823年には『ロマン主義について』を書き、神話と古典への盲従や修辞の規則を否定し、有益であること、真実であること、おもしろさを追求すべきだと説いた。1820年代に完成した主著『いいなづけ』は、リソルジメントの象徴とされるとともに、トスカーナ語を基本とする近代イタリア標準語の形成に大きく寄与した。

1833年に妻エンリケッタを亡くし、1837年にはテレーザ・ボッリと再婚した。1840年からはマッジョーレ湖畔のレーザに移って著作に専念した。1848年のミラノの対オーストリア蜂起では、息子をバリケードに送って励まし、イタリアの各君主にミラノ救援を呼びかけた。1860年にイタリア王国が成立すると上院議員となった。しかし妻や子供たちに次々と先立たれ、1873年1月6日にサン・フェデーレ教会を出る際に転倒して頭を強打し、5か月後の5月22日に脳髄膜炎を併発して没した。ヴェルディの『レクイエム』は彼を追悼するために完成された。

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