HISTORICAL PERSON · 1873年没

デイヴィッド・リヴィングストン

スコットランドの探検家・宣教師・医師。ヨーロッパ人で初めてアフリカ大陸を横断し、現地の状況を報告して奴隷解放へ向けて尽力した。

生涯
1873年没
死亡地
ザンビア共和国(北部州 / Ilala Hill)
出生地
イギリス連邦(ブランタイヤ―)
出典
世界地図
ザンビア共和国(北部州)

伝記

デイヴィッド・リヴィングストンは、1813年にスコットランドのブランタイアで生まれた探検家、宣教師、医師である。生家は貧しく、10歳のころから近所の紡績工場で働いたが、聖書やラテン語などの学問への意欲は旺盛で、仕事中に本を読む工夫をし、夜間学校でも勉強した。中国で宣教したカール・ギュツラフに感銘を受け、中国で医療を施しながら布教することを志した。1836年にグラスゴー大学に入学し、長期休暇のたびに工場で働きながら医学と神学を学び、1838年にはロンドン宣教師協会に入会した。ところが1840年にアヘン戦争が始まって中国行きは頓挫し、アフリカで宣教していたロバート・モファットの話に魅了されて、南アフリカへ派遣されることになった。

1840年12月、蒸気船で出発し、ケープタウンからベチュアナランドのクルマンに居を構えた。内陸を探検して布教の拠点を探すなかで、野生のライオンに襲われて左腕に重傷を負い、この傷は死後に彼を識別する証拠となった。1844年にモファットの長女メアリーと結婚し、1849年8月にはヨーロッパ人として初めてヌガミ湖に到達した。1851年6月にはザンベジ川に達したが、子の一人が熱病で倒れたため、1852年4月に家族をイングランドへ送り返した。

その後は、衛生度の高い内陸の高地に拠点を作ることと、奴隷貿易をなくすために中央アフリカの交易ルートを探ることを目指し、西へ向かった。熱病と飢餓と赤痢に苦しみながら、1854年5月31日に大西洋岸のルアンダに着き、王立地理協会に詳しい報告の手紙を送って、1855年にメダルを授与された。帰路の1855年11月17日には、ヨーロッパ人として初めてモシ・オ・トゥニャ滝を目にし、女王にちなんでヴィクトリア滝と名づけた。さらに東へ進み、1856年3月2日にインド洋岸のケリマネに到達して、2年6か月かけてヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸を横断した。

1856年12月、16年ぶりにイギリスへ戻ると英雄としてもてなされ、翌年の『南アフリカにおける宣教師の旅と探検』はベストセラーとなった。一方、一箇所に居住しなかったとしてロンドン宣教協会から除名された。1858年にザンベジ探検隊の隊長に任命されて再びアフリカへ渡り、シレ川やマラウィ湖周辺を探検したが、妻メアリーは1862年4月27日にマラリアで亡くなった。1863年に政府から帰還を命じられ、探検は失敗とみなされる向きもあった。1865年の『ザンベジ川と支流』は、奴隷貿易の実態を伝えて知識人を驚愕させた。

同年、王立地理協会の依頼でナイルの水源を探すため、三度目の旅に出た。1866年1月にザンジバルへ着いたが、奴隷商人の妨害に遭い、ポーターの脱落も相次いだ。1867年にタンガニーカ湖に着き、ムウェル湖、バングウェル湖を発見したが、体調が悪化して、ウジジで静養した。1871年3月には、ルアラバ川の岸辺で1500人もの奴隷が虐殺される場に立ち会った。消息が途絶えると、ヘンリー・スタンリーが捜索に派遣され、1871年11月10日にウジジで本人に対面した。この時の言葉「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか」は、のちに慣用句となった。彼は帰国の勧めを断って探検を続け、1873年5月1日、チタンボでマラリアの複合症により息を引き取った。従者たちは亡骸を防腐処理してザンジバルへ運び、1874年にイギリスへ着き、左腕の傷により確認されて、ウェストミンスター寺院に葬られた。

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