HISTORICAL PERSON · 1872年没

カール15世 (スウェーデン王)

ベルナドッテ王朝第3代のスウェーデン国王でノルウェー国王(1859〜1872年)。「国は法をもって建てられるべし」を座右の銘に地方自治法や刑法などを制定し、1868年に日本と修好通商航海条約を結んだ。

生涯
1872年没
死亡地
スウェーデン王国(スコーネ県 / マルメ)
出生地
スウェーデン王国(ストックホルム)
出典
世界地図
スウェーデン王国(スコーネ県)

伝記

カール15世は、1826年5月3日にストックホルム宮殿で生まれたベルナドッテ王朝第3代のスウェーデン国王であり、ノルウェー国王としてはカール4世と呼ばれる。在位は1859年から1872年である。父はスウェーデン王太子オスカル、母は王太子妃ジョゼフィーヌで、その長男として生まれ、誕生と同時にスコーネ公爵に叙された。フランス系の外来王朝であるベルナドッテ家の君主としては初めてスウェーデンの地で生まれ、スウェーデン語を母語として育ち、生まれながらルター派の信仰のもとで養育された。祖父は当時の国王カール14世ヨハンであり、幼少期は王室養育係の手に委ねられ、15歳の1841年に祖父から最初の士官任官を受けた。

1844年、老齢のカール14世ヨハンが81歳の誕生日に卒中の発作に見舞われ、それから1か月あまりのちに崩御した。父がオスカル1世として即位すると、カールは若くしてウプサラ大学とルンド大学の総長に任ぜられ、1853年にはスウェーデン王立美術院の総裁に就いた。1846年にはスウェーデン王立科学アカデミーの名誉会員にもなっている。1850年6月19日、ストックホルムでオランダ王女ルイーゼと結婚した。花嫁は教養と洗練を兼ね備えた女性だったが、容姿は平凡とみなされ、新郎はその容貌に落胆したという。妻から愛されていたにもかかわらず他の女性たちを好み、内気な妻を顧みず、彼女を深く悲しませた。他方で、一人娘ロヴィーサとの関係は暖かく親密であった。

1856年と1857年には短期間ノルウェー副王を務め、1857年9月に摂政となり、1859年7月8日に父王が死去するとカール15世として即位した。1860年5月にストックホルムで、同年8月にノルウェーのトロンハイムで戴冠している。王太子時代は無愛想な態度から、即位を危ぶむ者も多かった。しかし実際にはスカンディナヴィア諸国の君主のなかでも最も人望を集めた一人となり、憲法をよく遵守する君主として厚い信望を得た。その治世は多方面にわたる改革で高く評価され、地方自治法(1862年)、教会法(1863年)、刑法(1864年)は、座右の銘「国は法をもって建てられるべし」の理念の下に制定された。1858年には民法を改め、未婚女性が最寄りの裁判所での簡易な申請で成年と認められるようにし、最初に申請した女性の一人は妹だった。1866年のリクスダーゲン改革にも支持を与えた。

外交では、父と同じく汎スカンディナヴィア主義に賛同し、北欧3王国の政治的連帯を支持した。デンマーク国王フレデリク7世と親しかったため、1864年の戦争の直前にデンマークへ援助を約束するような言質を与えたと伝えられる。しかしスウェーデン軍の準備不足などから、結局は中立にとどまった。1868年11月には、日本駐在のオランダ人外交官を代理に立てて日本との修好通商航海条約を結び、函館、横浜、長崎、神戸、大阪が通商のために開かれた。晩年は病苦に悩まされ、1872年9月18日にマルメで腹部結核により死去した。画家や詩人としてもいくらか名声を得て、蒐集した美術品の大半を遺言で国に譲った。民衆からは愛称で「王様カッレ」と呼ばれた。王位は弟のオスカル2世が継いだ。

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