伝記
ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベールは、1782年1月29日にフランスのカーンで生まれ、1871年5月12日にパリで没した作曲家である。オペラの分野で活躍し、50あまりの作品を遺した。日本語では「オーベール」とも読まれる。生家はカーンの宿屋に滞在中で、聖ジュリアン教会で洗礼を受けた。祖父はルイ16世の画家で、父は「王の狩猟官」であると同時に画家でもあり、宮廷で音楽の愛好家としても知られた。一家は王室と特別な関係を持つ芸術家の家系であった。
フランス革命を機に一家はパリに移り、父は版画などを扱う商売を始めて成功した。この時期に、父の人脈のおかげで音楽への関心を深めた。最初の師はオペラ・コミック座のバリトン歌手ジャン=ブレーズ・マルタンで、いくつかのロマンスや小さなイタリア風の歌を作る早熟な才能を示した。ところが父は息子に家業を継がせるつもりで、アミアンの和約の後の1802年にロンドンへ送り、商売の初歩と英語を学ばせた。だが翌1803年に戦争が再開し、商売への関心も薄かったので、フランスに戻った。以後パリを離れることはなく、自分でもその必要を感じなかったと語っている。
帰国後は、父の商売が順調だったこともあり、趣味の音楽家として歩み始めた。ピアニストのイグナーツ・ラドゥルネルに学び、サロンで演奏し、1805年にはアマチュア団体の演奏で小さなオペラ・コミックが上演された。1808年にパリ音楽院で披露したヴァイオリン協奏曲が大成功を収めたことがきっかけで、ケルビーニの目に留まり、三年間この厳格な師に学んだ。ケルビーニはまた、ベルギー貴族のシメイ公という庇護者も見つけてくれた。1812年にはシメイ公の城で、第二作のオペラ・コミック『ジャン・ド・クーヴァン』を作曲している。続いてジャン=ニコラ・ブイイの台本で初のオペラを書いたが、評価は名誉的な成功にとどまり、第二作も失敗して、台本の重要性に目を向けるようになった。
1819年に父が破産して亡くなると、独身のまま母と弟を支える立場に置かれ、職業音楽家として生きる決意をした。以後は平均して年に一作のオペラを書く多作の作曲家となった。ウジェーヌ・スクリーブの台本と組んで、1828年に『ポルティチの唖娘(マザニエッロ)』、1830年に最も成功した『フラ・ディアヴォロ』、1837年に『黒いドミノ』などを発表した。『フラ・ディアヴォロ』のアリアは、浅草オペラなどでも広く歌われた。1842年にはケルビーニの後任として音楽・演劇学校(現在のパリ国立高等音楽院)の院長に就任し、没するまでその職にあった。パリ・オペラ座ではワーグナーと人気を二分するとまで言われたが、現在は作品がほとんど忘れ去られ、序曲が時おり演奏されるにとどまる。ガルニエ宮の後方の通りやオベール駅に名が残り、墓はペール・ラシェーズ墓地にある。初めはロッシーニに影響を受けたが、おもにボワエルデューに連なるフランスのオペラ・コミックの伝統を受け継ぎ、ワーグナーが『リエンツィ』を書く際には、アレヴィとともに手本になったという。1871年の彼の死後、院長に就いたフランシスコ・サルバドール・ダニエルは、就任11日で射殺された。
同じ年に亡くなった人物
- ルイーゼ・ファン・オラニエ=ナッサウ (1871年没)
- ヴィルヘルム・カール・リッター・フォン・ハイジンガー (1871年没)
- カストロ・アウヴェス (1871年没)
- フリードリヒ・ハルム (1871年没)
- ロデリック・マーチソン (1871年没)
同じ地域に関係する人物
- レイモン・アロン (1983年没)
- ピエール・バイヨ (1842年没)
- クロード・ピノトー (2012年没)
- モーリス・ドリュオン (2009年没)
- イザベル・ド・ヴァロワ (ブルボン公妃) (1383年没)