伝記
ジャン・ベルナール・レオン・フーコーは、1819年9月18日にパリで、出版業者の父のもとに生まれたフランスの物理学者である。少年期はパリとナントで過ごし、普通教育をパリの私立スタニスラス校で受けた。しかし病弱な体質のために学校へ通えず、家庭教師から勉学を学んだ。最初は外科医を目指して医学を修める予定だったが、血液恐怖症で虚弱体質でもあったため断念した。病弱ではあったが手先は器用で、蒸気機関や電信機、ボートなどの模型を巧みに製作したという逸話が残る。写真術の改良をきっかけに物理学者アルマン・フィゾーと親しくなり、物理学や光学に傾倒していった。
1844年以降は科学の教科書や新聞に記事を書いて生計を立て、フィゾーと共同で研究を行った。1845年4月には、ダゲレオタイプによって太陽表面の詳細な写真撮影に初めて成功した。1847年には太陽からの放射が干渉を起こし、波動としての性質を持つことを見いだし、光速度測定装置の開発を始めたが、同年にフィゾーと袂を分かち、それぞれ独立して研究を続けた。当時は光の波動説と粒子説が対立しており、アラゴは、空気中と水中の光速を比べればどちらが正しいかを立証できると主張していた。フィゾーが1849年に回転する歯車を用いて光速を測ったのに対し、フーコーは回転する鏡を用いた方法に固執し、1850年に空気中の光速が水中より大きいことを証明した。1862年には改良した装置で毎秒29万8000キロメートルという値を得た。これは後世の精度の高い値からの誤差が0.6パーセントにすぎない。また、1853年には「空気中と水中の光の速度について」と題した論文を提出して博士号を得た。
1851年、フーコーの振り子の実験で地球の自転を実験的に証明した。太陽の撮影ではカメラを追随させるため振り子仕掛けの装置を使っており、カメラが回転しても振り子の振れの向きが一定に保たれることに気づいたのが発想の元になった。自宅での予備実験に成功したのち、パリのパンテオンの大ドームから、長さ67メートルのワイヤーに重さ28キログラムの鉄球を吊るした振り子で公開実験を行い、予想どおり振動面が回転することを示した。翌1852年には、この装置を「ジャイロスコープ」と名付けた。
1855年には、強い磁場の中で金属板を動かすと金属内に渦状の誘導電流が生じることを発見した。これは渦電流、またはフーコー電流と呼ばれる。同年、イギリス王立協会からコプリ・メダルを授与され、パリ天文台の助手にもなった。1859年には、反射望遠鏡の鏡面の形状を精密に検査する方法を発表し、フーコーテストまたはナイフエッジテストと呼ばれて、今日でも簡易検査法として使われている。1862年にはフランス皇帝ナポレオン3世からレジオンドヌール勲章のオフィシエを与えられた。1864年には口径80センチの反射望遠鏡の主鏡を製作し、同年に王立協会の外国人会員に選ばれた。この主鏡は後にマルセイユ天文台の望遠鏡に使われた。
1868年2月11日、多発性硬化症により、パリで没した。生涯独身で子はなかったとされる。フィゾーの誕生日は5日遅れの9月23日で、没した日はフーコーの誕生日にあたる9月18日であった。モンマルトル墓地に埋葬され、エッフェル塔に名前を刻まれたフランスの科学者72人の一人に数えられている。
同じ年に亡くなった人物
- テオドロス2世 (エチオピア皇帝) (1868年没)
- ベニゼロス・ルフォス (1868年没)
- Mary Euphrasia Pelletier (1868年没)
- ベルナルド・プルデンシオ・ベロ (1868年没)
- エマヌエル・ロイツェ (1868年没)
同じ地域に関係する人物
- モーリス・ロネ (1983年没)
- ピエール・コルネイユ (1684年没)
- オーギュスト・デュモン (1865年没)
- Blanka Teleki (1862年没)
- カルル・ヴェルネ (1836年没)