伝記
エウロギウスは、9世紀のコルドバで活動したキリスト教の聖職者である。800年ごろに生まれ、859年3月11日に斬首刑に処された。カトリック教会と正教会で聖人とされる。後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン2世から、その子ムハンマド1世の治世にかけて活動した。
コルドバの貴族の家系に生まれた。親友アルヴァルスの著した伝記によれば、純血のヒスパノ=ローマ人で、アラブ人の血は混じっていなかったという。両親によって聖ソイロ教会の修道院に預けられ、師スペラインデオのもとで哲学、神学、ラテン語、アラビア語を学んだ。スペラインデオは三位一体の教義と異端の研究を行い、イスラームに対しても当時のアンダルスでもっとも厳しい見方をとる知識人のひとりだった。エウロギウスらの反イスラーム的な態度は、この時代に培われたとされる。やがて助祭、司祭となり、殉教事件の直前には聖職者教育の教師を務めた。848年には北方へ旅に出て、後ウマイヤ朝に抵抗するキリスト教徒の支配地域を2回訪れたとされる。パンプローナの司教のもとに迎えられ、ピレネーの修道院を巡って、レイレでは討論を含む『ムハンマド伝』を見つけ、シレサではウェルギリウスの『アエネイス』やホラティウスの詩、アウグスティヌスの『神の国』といったラテンの書物を見つけたという。帰途に立ち寄ったトレドの司教の後任に、のちの858年に選ばれた。ちょうど2回目の旅を終えてコルドバに戻った直後に、のちに「殉教」と呼ばれる事件に出会うことになる。
851年6月3日、かつてズィンマの書記を務めたキリスト教徒イサークが、イスラーム法の裁判官の前でイスラームと預言者ムハンマドを批判し、斬首された。その後も官吏の前でイスラームを批判して死刑となる者が続いた。アブド・アッラフマーン2世は激怒し、イスラームへの批判は理由を問わず死刑という法令をあらためて出した。ムハンマド1世が即位してからも事態は続き、アミールはキリスト教徒の官吏を追放し、ズィンミーへの権利制限を厳格に施行して、抑圧を強めた。キリスト教社会の意見は二分され、当初は処刑された人びとへの同情が強かったが、圧迫が強まると、多くの人が「個人的な魂の救済のために共同体を危機にさらした」と殉教者を非難した。
エウロギウスはアルヴァルスとともに殉教者を熱烈に擁護し、その徳と勇気を賞賛して、殉教記を著した。批判者に反論して、イスラームは三位一体を否定しイエス・キリストを被造物とする以上、両宗教の同質性を口にして殉教の意義を軽んじるのは誤りだと述べ、融和的な態度をキリスト教の唯一性を自ら放棄するものだと批判した。一方、自らも殉教を勧めたとされ、約50人のコルドバのキリスト教徒が処刑される中に、その説得を受けた者もいたという。そのため投獄され、獄中で『聖者の記録』や、同じく囚われていた聖女フローラとマリアにあてた書などを書いたが、851年11月29日に釈放された。
859年の初めには、ムスリムの両親をもつ娘レオクリキアをかくまった罪で再び捕らえられ、裁判の席でもイスラームとムハンマドへの批判をやめなかった。裁判官は有力者である彼の処刑をためらってアミールと重臣に相談し、重臣のなかにも「形だけでも反省を見せれば寛大な処置を願える」と説得する者があった。しかしエウロギウスは断固として拒み、859年3月11日に斬首された。著作では、ムハンマドを偽預言者とし、イスラーム教徒の天国の描写を「売春宿」と呼んだ。教会の新築禁止やジズヤの支払いなど、キリスト教徒が受ける差別も訴えた。