伝記
オソン1世は、1815年6月1日にオーストリアのザルツブルクで生まれた初代ギリシャ国王である。オットーとも呼ばれ、全名はオットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハという。父はバイエルン国王ルートヴィヒ1世、母はザクセン=ヒルトブルクハウゼン公女テレーゼで、兄にバイエルン国王マクシミリアン2世、弟に摂政ルイトポルトがいる。幼いころは体質も気質も繊細で、軽い吃音があり、ピアノを好んだという。10代の頃には、古典学者でギリシャびいきのフリードリヒ・ティールシュから古代ギリシャ語とラテン語を教わった。ティールシュは、この若い王子を新生ギリシャの王位候補にと最初に提案した人物だったとされる。
ギリシャ独立戦争の結果、オスマン帝国から独立を達成したギリシャの体制について、列強は君主国とするのが適当と結論した。1829年のロンドン議定書は、君主を三列強の王家以外から選ぶと定めた。最初の候補だったザクセン=コーブルク=ゴータ公子レオポルドが辞退し、1831年にはギリシャの総督カポディストリアスも暗殺されて情勢は混乱した。そのため、英仏露間のロンドン会議で、東ローマ皇帝の血を引くとされ、列強のいずれとも縁のないバイエルンのオットー王子に王冠が申し出られ、彼は17歳でこれを受け入れた。ギリシャ人には意見が求められなかった。称号は、トルコ支配下にいる多数のギリシャ人への領有主張を含むのを避けるため、「ヘレネスの王」ではなく「ギリシャ王」とされた。在位は1833年2月6日から1862年10月23日までで、当時の首都ナフプリオに上陸した彼のまわりには、バイエルン宮廷から連れてきた多くの廷臣がつき従っていた。新国家の財政は英仏露三国とロスチャイルド家が保証したが、新政府の課す税はオスマン帝国時代よりも重かった。国王はギリシャの風習に関心を示さず、ギリシャ正教に改宗せずカトリックを信仰し続けた。ただし、文化財の流出を防ぐ「記念物法」は1834年に施行された。1837年にオルデンブルク大公の娘アマーリエと結婚したが、結婚式はギリシャでは開かれなかった。王妃が政治に干渉したとされ、君主制への支持はさらに失われた。1841年にクレタ島を併合しようとした動きは、列強に制された。
1843年にバイエルンの軍隊がギリシャから撤退すると、ただちにギリシャ軍によるクーデターが起き、憲法の制定を認めさせられた。さらに英国艦隊がピレウス港を封鎖する事件もあって、国王の権威は弱まった。キリスト教国による東ローマ帝国の再建という夢(メガリ・イデア)を抱いていた彼は、1854年にクリミア戦争が始まるとオスマン帝国に宣戦したが、結果は不首尾に終わった。1861年には学生が王妃の暗殺を図り、その行動は民衆から歓呼で迎えられた。1862年に再びクーデターが起こると、暫定政府は国民議会の開催を決め、国王夫妻はイギリス艦でギリシャを出てバイエルンへ向かった。
退位後もギリシャの伝統衣装を着続け、1866年にクレタ島でオスマン帝国に対する反乱が起きると、自分の財産で武器を購入して反乱側に渡したといわれる。1867年7月26日、バイエルン北部のバンベルクで死去し、遺体はミュンヘンに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ラモン・カスティーリャ (1867年没)
- ロバート・スマーク (1867年没)
- ヴィクトル・クザン (1867年没)
- ジェイムズ・ファーガソン (1867年没)
- シャルル・ボードレール (1867年没)
同じ地域に関係する人物
- フィリップ・ルートヴィヒ (プファルツ=ノイブルク公) (1614年没)
- オットー3世 (シュヴァーベン大公) (1057年没)
- ユリウス・シャウブ (1967年没)
- ベレンガーリオ2世 (966年没)
- ダーナ・ヴァヴロヴァ (2009年没)