HISTORICAL PERSON · 1867年没

シャルル・ボードレール

フランスの詩人・評論家。近代詩や象徴主義の創始者とされ、詩集『悪の華』は出版直後に風俗壊乱で起訴された。他に『パリの憂鬱』がある。

生涯
1867年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(former 11th arrondissement of Paris)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

シャルル・ボードレールは、1821年4月9日にパリで生まれたフランスの詩人、評論家で、フランス近代詩と象徴主義の創始者とされる。父ジョゼフ・フランソワは晩婚で、芸術に深い関心を持った人物であったが、シャルルが6歳のときに亡くなった。その1年半後、母カロリーヌは将来有望な軍人オーピックと再婚した。ボードレールは母の再婚に深く傷つき、生涯にわたって鬱屈した感情を抱えたとされる。一家はやがてリヨンに移り、彼は私塾から王立中学に進んだ。1836年に一家がパリへ戻ると、エリート校として知られるリセ・ルイ=ル=グランに転校した。養父の望みに沿う優等生として努力し、しばしば成績上位者に入ったが、哲学級の最終学年で教員と問題を起こし、同校を離れた。その後に別のリセで卒業の認定を受けて大学入学資格試験に合格し、パリ大学法学部に入ったが、法律を学んだ形跡はなく、文学者になると称して中流の家族を失望させた。

バイイ私塾の時期には、ネルヴァルらを知り、文芸新聞に寄稿し、バルザックの門もたたいた。20歳になると亡父の遺産を引き継いで散財したため、財産を使い果たすことを恐れた親族らによって、1841年に半ば強制的にインド行きの船に乗せられた。ところが彼は嫌気がさして途中で下船し、1842年2月にモーリシャス島からパリへ逃げ戻った。以後、晩年のベルギー旅行を除いて海外に出ることはなかった。4月に成年に達して遺産を分与されると、サン・ルイ島に落ち着き、散財の限りを尽くすダンディとして知られた。ユーゴー、サント=ブーヴ、ゴーティエを知り、ジャンヌ・デュヴァルと関係を持った。1844年には禁治産者として弁護士の監視下に置かれ、売文の必要に迫られ、死ぬまで貧窮に苦しんだ。

詩作の大半は20代に書かれたと言われるが、最初に文壇に登場したのは、1845年に官展の美術批評家としてであった。『1845年のサロン』と『1846年のサロン』で、ロマン主義の画家ドラクロワを擁護した。美術評論は『1855年の万国博覧会』『1859年のサロン』と続き、最大の功績はコンスタンタン・ギースを論じた『現代生活の画家』で「モデルニテ」の概念を提唱したことである。エドガー・アラン・ポーを翻訳してフランスに紹介した。1848年の二月革命には赤いネクタイを巻いて参加し、クールベと友好を結び、プルードンとも会ったという。

1857年に生前発表した唯一の詩集『悪の華』を出版したが、そのうち6篇が公序良俗に反するとして罰金刑を受け、削除を命じられた。1861年には35篇を加えた第二版を出して、詩人としての地位を確立した。その卑猥で耽美的、背教的な内容は、後の世代に絶大な影響を与えた。韻文詩集のあと、散文詩の新たな可能性を目指し、のちに『パリの憂鬱』として出版される作品を書き継いだ。アヘン体験を記した『人工楽園』の第一部は1858年に公表している。

1863年ごろから梅毒による体の不調に悩み始め、1864年には負債に追われてブリュッセルへ逃れた。1866年3月にナミュールで倒れ、脳神経の変調で言葉を失い、母に付き添われてパリに戻った。1867年8月31日に没し、モンパルナス墓地に葬られた。『パリの憂鬱』は、1869年に出版された。ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメらに決定的な影響を与えたことから、「近代詩の父」と称される。

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