HISTORICAL PERSON · 1864年没

フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ

ドイツ系ロシア人の天文学者。タルトゥ天文台長やプルコヴォ天文台長を務め、二重星の長年の観測と測地学の研究で知られる。

生涯
1864年没
死亡地
ロシア連邦(レニングラード州 / プルコヴォ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハンブルク=アルトナ)
出典
世界地図
ロシア連邦(レニングラード州)

伝記

フリードリッヒ・ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・シュトルーベは、1793年4月15日に生まれ、1864年11月23日(ユリウス暦11月11日)に没したドイツ系ロシア人の天文学者・測地学者である。シュトルーベ家は数代にわたってロシア、ドイツ、アメリカ合衆国で活躍した天文学者を輩出しており、彼はその第二世代にあたる。現在はハンブルク市の一部となっている、当時デンマーク領のアルトナで貴族のシュトルーベ家に生まれ、父はヤーコプ・シュトルーベである。フランスによるホルシュタイン占領のとき、兵役を避けるために、一家はデンマークの旅券を持ってロシア帝国へ移った。

1808年に現在のエストニアにあるタルトゥ大学(当時ロシア帝国のドルパト大学)に入り、最初は文献学を学んだが、まもなく天文学へ関心を移した。1813年から1820年にかけて大学で教えながらタルトゥ天文台で観測を行い、1820年に正教授となって天文台の所長に就任した。1839年までタルトゥで二重星の研究と測地学の研究を行い、その後サンクトペテルブルク近郊に新設されたプルコヴォ天文台の所長を務めた。1826年に王立天文学会のゴールドメダルを受け、1827年には王立協会のフェローに選ばれてロイヤル・メダルも受賞している。1833年にスウェーデン王立科学アカデミー会員、1834年にアメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に選ばれ、1843年には正式にロシア国籍を取得した。

研究の中心は二重星の観測であった。ウィリアム・ハーシェル、ジョン・ハーシェル、ジェームズ・サウスらの観測をしのぐ成果をあげ、1824年にはフラウンホーファーが作った口径23センチの屈折望遠鏡を入手して、きわめて多数の二重星を発見した。1827年には二重星の目録を刊行している。連星の公転によるゆっくりした位置の変化を2714組について精密に測定し、1837年に『二重星および多重星の精密測定』として発表した。1843年には光行差の量を測定した。恒星の年周視差を最初に測定したのはフリードリッヒ・ベッセルだったが、ベガの年周視差の測定には、同じ1837年に成功した。1847年の著作では、星間吸収の影響をいち早く指摘した天文学者の一人でもあった。

測地学でも、1831年にバルト海沿岸地方の緯度測量を記した書を刊行し、のちに「シュトルーヴェの測地弧」と呼ばれる三角測量の連鎖の整備を主導した。これはノルウェーのハンメルフェストから黒海に近いスタラ・ネクラシウカに至る約2,820キロメートルに及び、地球の正確な大きさと形を求めるための計画であった。観測点の一部は2005年にユネスコの世界遺産に登録されている。1815年にアルトナでエミリー・ヴァルと結婚して12人の子をもうけ、その一人が天文学者のオットー・ヴィルヘルムである。前妻の死後はマルティン・バルテルスの娘と再婚し、さらに6人の子が生まれた。健康の衰えから1862年に退き、1853年にはアメリカ哲学協会の会員にも選ばれた。小惑星シュトルーヴィーナはシュトルーベ家にちなんで命名され、1969年にはタルトゥのトーメの丘に記念碑が建てられた。

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