伝記
ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、1811年7月18日、英領インドのカルカッタで生まれたイギリスの小説家である。父リッチモンドはイギリス東インド会社に勤め、収入局の書記官を務めた。母アンには、周囲の反対でインドへ送られる前、カーマイケル・スミスという恋人がいた。アンはインドでサッカレーの父と出会って結婚したが、偶然そこでスミスに再会し、夫を亡くしたのちにスミスと再婚したとされる。幼いサッカレーは父の死後、義父に連れられてインドを離れ、イギリスへ渡った。渡英は1815年とも1816年ともいわれる。船がセントヘレナ島に寄港した際、囚われの身だったナポレオンを指さして教えられたという。
イギリスではサウサンプトンやチズウィックの学校で学び、のちにチャーターハウス校へ入った。この学校を嫌い、のちの小説では「屠殺場」と風刺したが、没後には礼拝堂に記念碑が建てられた。最終学年の病気で入学が遅れ、1829年2月にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジへ進んだ。学問にはあまり熱心でなく、詩を投稿する一方、賭博に熱中して1830年に大学を去った。その後はヨーロッパ大陸を旅し、パリやヴァイマルを訪れて、ヴァイマルではゲーテに会っている。帰国後は法律を学び始めたが、すぐにやめた。二十一歳で父の遺産を受け取ると、賭博や、二つの新聞の出資に費やしたが、いずれも失敗に終わった。画家も志したが実らず、遺産を預けていたインドの銀行代理店が倒産して、ほぼ無一文になった。
1835年、ベラー・ショーとの結婚を機に新聞社の通信員となったが、わずか二年で退職した。結婚は1836年8月ともいわれ、妻の名はイザベラ・ゲシン・ショーとも伝えられる。彼は生活のために書くしかなくなり、「パンチ」などに評論や小品を手当たり次第に送って食いつないだ。『フレイザーズ・マガジン』には美術批評や短い物語、長編『キャサリン』『バリー・リンドン』を寄せ、1837年から1840年には『タイムズ』の書評も担当した。「パンチ」では連載「俗物の書」が人気を集め、のちにまとめられて、現在の意味での「スノッブ」という語を広めた。
私生活では、三人目の子の誕生後、妻が1840年に抑鬱に陥り、その精神の病が彼を苦しめた。夫妻には三人の娘が生まれ、そのうち次女は生後八か月で亡くなり、三女ハリエットはのちにレズリー・スティーヴンと結婚した。やがて『虚栄の市』(1847年から48年)で作家としての地位を確立し、ディケンズと並び称されるに至った。上流階級を痛烈に批判したこの作品のあとにも、『ペンデニス』(1848年から50年)、歴史小説『ヘンリー・エズモンド』(1852年)、『ニューカム家の人々』(1853年から55年)などを発表している。1857年には国会議員の選挙に出て落選し、1860年には『コーンヒル・マガジン』の編集を引き受けた。
ディケンズが庶民や貧民の側に立って人情味ある作品を書いたのに対し、中の上の階級の出身で教育にも恵まれていたサッカレーは、自分の属する階級の腐敗や俗物根性を暴くことに優れていた。ディケンズとは友人同士だったが、サッカレーを酷評した批評家をディケンズが支持したため、サッカレーの亡くなる前年まで仲たがいしていた。1863年12月24日、『デニス・デゥヴァル』の執筆半ばに五十二歳で死去した。過食や飲酒、運動不足によって健康が衰えており、死因は脳卒中とされる。ウエストロンドンのケンサルグリーン墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- ヤコブ・シュタイナー (1863年没)
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- Johann Friedrich Bohmer (1863年没)
同じ地域に関係する人物
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