HISTORICAL PERSON · 1861年没

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)

プロイセン国王。三月革命後の反動勢力の中心となり、欽定憲法を制定して上からの近代化を進め、「玉座のロマン主義者」と呼ばれた。

生涯
1861年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州 / ポツダム)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州)

伝記

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、1795年10月15日に、のちのプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と王妃ルイーゼ(メクレンブルク=シュトレーリッツ公女)の子として生まれた。1840年6月7日にプロイセン国王となり、1861年1月2日まで在位した。三月革命以降の民主化運動に対しては反動勢力の中心となる一方、欽定憲法を制定して上からの近代化を進めた。中世的な王権に憧れる時代錯誤な君主観を示したため「玉座のロマン主義者」と呼ばれ、容姿からは「ひらめ」とあだ名された。

少年期は比較的市民的な家庭環境で育ったが、1806年にプロイセンがナポレオン軍に敗れると、王家とともにケーニヒスベルク、さらにメーメルへ逃れた。1800年には神学者ヨーハン・フリードリヒ・デルブリュックが王太子の教育係に就き、人間性や道徳、実践的な宗教性を重んじる教育が逃避中も続けられ、1807年に英語、1808年にラテン語の学習が始まった。デルブリュックは、鋭い理解力や豊かな想像力、記憶力、深い宗教心を評価する一方、奔放さや激昂しやすさも指摘した。成長するにつれ、将来の君主として軍事教育をもっと重視すべきだとの声が強まったという。1823年11月29日には、バイエルン国王マクシミリアン1世の娘エリーザベト・ルドヴィカと結婚した。両王室の結びつきを強める婚姻で、宗派の違いが障害となったが、妃はのちに自らの意思で改革派信仰へ改宗した。二人の結婚生活は幸せだったと証言されているが、子は生まれなかった。

王の即位は、自由主義派と保守派の双方に大きな期待を抱かせた。数千人の聴衆を前に演説した最初のプロイセン王であり、格調高い即位演説で人々を驚かせた。父の復古的で抑圧的な政治を終わらせ、ローマ・カトリック教会との対立では大きな譲歩をして解消し、古ルター派への抑圧も止めた。フリッツ・ロイターらに恩赦を与え、エルンスト・アルント、グリム兄弟らを復職させたが、検閲は続けられた。1842年には、建設が再開されたケルン大聖堂の式典に臨み、ケルン大司教とともに礎石を据えた。中世を高く評価するロマン主義に強く共感し、ネオゴシック様式を愛好して、ポツダムのフリーデン教会の建設を提案し、シュトルツェンフェルス城やホーエンツォレルン城の再建も行った。1841年には、ヘーゲルの死で空席となったベルリン大学の哲学教授にシェリングを招き、ヘーゲル左派の急進的思想への防壁にしようとした。

1847年に開かれた議会は、父が約束した憲法の制定を求めたが、王はこれを拒んだ。翌1848年に三月革命が起こり、ベルリンで市民と軍隊が市街戦を演じると、王は軍隊に市外への退去を命じて憲法制定を約束し、国民議会の解散後の12月5日に欽定憲法を制定した。言論や集会の自由、司法の独立、三級選挙などを定めたこの憲法は、1918年のドイツ革命まで効力を保った。1849年3月28日、フランクフルト国民議会が「ドイツ皇帝」の称号を贈ろうとしたが、王は帝位は民衆でなく諸侯の協議で決まるものと考えて戴冠を拒んだ。晩年は小ドイツ主義に立ってドイツ連邦の形成を目ざしたが、オーストリアとロシアの干渉で不成功に終わった。1857年以降は脳卒中に何度も倒れ、言語障害や精神障害をきたしたため、王妃の判断で王弟ヴィルヘルムが政務を代行した。1861年1月2日、ベルリンで崩御し、ヴィルヘルムが後を継いだ。

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