HISTORICAL PERSON · 1861年没

カミッロ・カヴール

サルデーニャ王国とイタリア王国の首相を務めた政治家・実業家。軍人から実業家、議員へと転身し、イタリア統一の主導的な役割を担った。

生涯
1861年没
死亡地
イタリア共和国(トリノ県 / トリノ)
出生地
イタリア共和国(トリノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(トリノ県)

伝記

カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ、通称カヴール伯爵は、1810年8月10日に、当時フランス帝国領だったピエモンテ地方のトリノで生まれた政治家・実業家である。カヴールは爵位名で、家名はベンソという。父ミケーレと母アデーレ・デ・セロンの第2子で、父と親交のあったカミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼが名付け親となった。ピエモンテの貴族は日常会話にフランス語を用いており、カヴールもフランス語を習得して生涯の母語とした。ナポレオンの退位後、イタリアは小国が分立する状態となり、オーストリア宰相メッテルニヒは「イタリアという語は地理的名称に過ぎない」と語ったとされる。トリノは再びサルデーニャ王国の領土に戻った。

ピエモンテ貴族の次男や三男は軍人か聖職者になるのが普通で、カヴールは軍人の道を選び、1821年に10歳で士官学校に入った。1826年の最終試験では築城法、戦術戦略学、一般建築学、歴史学などで満点だったという。在学中は摂政カルロ・アルベルトの近習を務めたが、派手な制服を着る務めに不満で、卒業時に「これでやっと解放される」と漏らし、この失言はカルロ・アルベルトの耳にも入って怒りを買った。同年に工兵隊中尉となり、城塞の建築や補修にあたりながら、政治、経済、歴史の書物を読み、イギリスで発展した経済学に強い関心を持った。1830年にジェノヴァへ転属すると、七月革命の影響もあって自由主義に傾いた。ただし、フランス革命の恐怖政治を知るカヴールは、共和主義には否定的だった。自由主義思想ゆえに軍隊内で監視され、もともと軍人気質も肌に合わなかったため、1831年11月に21歳で除隊した。その後は酷い抑うつ状態に陥ったともいう。見かねた父が小さな村グリンツァーネの村長の地位を与え、彼は農場経営に関わるようになり、この地位を1848年まで保った。

1834年12月からは友人とパリ、ロンドンへ遊学し、議会下院を傍聴するなどしてイギリスの議会政治を評価した。実業家として農業ビジネスなどで成功し、新聞『イル・リソルジメント』の創刊にも協力した。1848年の革命で国王カルロ・アルベルトが憲章を発布して議会を設けると、下院の補欠選挙に当選して政治家に転身した。1850年にダゼーリョ内閣の国務大臣となり、民事婚法案をめぐって首相が辞任した1852年に、自ら首相の座に就いた。修道院の特権廃止をめぐるカトリック勢力との対立を乗り切り、政教分離と世俗化を進めた。1854年に始まったクリミア戦争では、英仏に恩を売る好機と見て参戦を決めた。

1858年にはフランス皇帝ナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び、オーストリアからロンバルディアなどを奪う協力と引き換えに、サヴォワとニースを割譲することを定めた。1859年の戦争ではナポレオン3世が独断で休戦を結び、カヴールは継戦を主張して首相を辞任したが、混乱のなかで1860年に再び首相となった。当初はイタリア全土の統一を構想しておらず、南部の併合も望んでいなかったが、ガリバルディの千人隊が遠征を始めたため方針を転換した。1861年3月にイタリア王国が成立し、国王との長年の対立のなかで初代首相に任命されたが、5月末にマラリアと見られる症状を発して、6月6日に亡くなり、その座にあったのは76日だった。

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