伝記
タラス・フルィホーロヴィチ・シェフチェンコは、1814年3月9日にロシア帝国領ウクライナのキエフ県で、農奴の家庭に生まれた。父フリホーリィと母カテリーナの子で、一家はやがて近隣のキリーリフカ村へ移り、ドイツ系ロシア貴族エンゲリガルトの所領で暮らした。幼い頃から村の教会学校で読み書きを習いながら、絵を独学で描いていた。しかし1823年、9歳で母を失い、父は再婚したものの継母は先妻の子らに冷たく当たったとされる。1825年に11歳で父も亡くなって孤児となり、教会に住み込んで輔祭のもとで働きながら、教会スラヴ語の読本や祈祷書に親しんだ。1828年、14歳のときに地主の家で小使を務めはじめ、翌1829年には主人に随伴してリトアニアのヴィリニュスへ移り、そこでポーランド人の針子と知り合ってポーランド語を磨き、詩人ミツキェヴィチの作品を原文で読めるようになったという。1831年からは首都ペテルブルクに住むようになった。地主は彼を家庭画家にするつもりで、ロシア人画家の弟子として美術を学ばせた。この頃から、彼はひそかに詩を書きはじめる。
その才能は、画家のカール・ブリューロフやアレクセイ・ヴェネツィアノフ、詩人のヴァシリー・ジュコフスキーらロシアの文化人に高く評価され、1838年、彼らの尽力によって農奴の身分から解放された。同じ年に、推薦を受けてロシア帝国美術大学に入学し、ブリューロフの弟子となった。1840年には、美術大学に在籍しながら詩集『コブザール』を著した。ウクライナ語で書かれていたため、ヴィッサリオン・ベリンスキーらロシアの知識人は「いなかっぺの言葉」を用いる詩人だと鋭く批判したが、ウクライナの文化人は絶賛した。批判に対しては、ウクライナ・コサックの時代を英雄的に描く物語詩『ハイダマキ』(1841年)や『ハマリア』(1844年)を出版して応えた。1843年にはウクライナに戻って史学者マクスィモーヴィチらと知り合い、『絵のように美しいウクライナ』という絵画のシリーズを作りはじめた。大学に戻った1844年には、反農奴制と反帝国主義を説く政治的物語詩『夢』を著している。農奴出身の役者ミハイル・シェープキンとも交流があった。
彼は農奴制に反対し、秘密結社に関わってウクライナの農奴の解放に力を尽くした。ただし、正式なメンバーではなかったと見られている。1847年4月5日に結社に手入れが入った際、皇帝ニコライ1世と皇后を批判する彼の詩が見つかって逮捕された。ペテルブルクの刑務所に入れられたのち、10年間の流刑生活を送った。皇帝の命で、流刑の間はペンと筆を持つことを禁じられたという。画家としても優れた才能で知られる。1861年3月10日にペテルブルクで世を去った。
近代ウクライナ語によるウクライナ文学の始祖と評価され、ウクライナでの人気は高い。首都キーウには彼の名を冠した国立大学があり、ウクライナ国家文学芸術賞「シェフチェンコ・ウクライナ国家賞」やタラス・シェフチェンコ国立博物館も設けられている。国外でも、ニューヨークの施設や沿ドニエストル共和国の紙幣など、ゆかりのものは多い。
同じ年に亡くなった人物
- アブデュルメジト1世 (1861年没)
- エリシャ・オーチス (1861年没)
- Frederic de Lafresnaye (1861年没)
- ウジェーヌ・スクリーブ (1861年没)
- Charles-Joseph-Eugene de Mazenod (1861年没)
同じ地域に関係する人物
- セルゲイ・キーロフ (1934年没)
- クロンシュタットのイオアン (1908年没)
- ニコライ・グネージチ (1833年没)
- カスパー・ヴォルフ (1794年没)
- ニコライ・リネウィッチ (1908年没)