伝記
リュデヴィト・ポサフスキ(リュデヴィト)は、810年から823年まで下パンノニアのスラヴ人を治めた首長である。都はシサク(現在のクロアチア)にあった。パンノニアのスラヴ人の支配者として、フランク人の支配に対する抵抗を率いたが、戦いに敗れ、823年に没した。
818年、リュデヴィトは使者をヘリスタルにいた皇帝ルートヴィヒのもとへ送り、フリウリ辺境伯カドロの一党がパンノニアで行った暴虐を訴えた。しかしフランク王は和平を拒んだ。819年、リュデヴィトはフランク宮廷から重い嫌疑をかけられたのを機に、支配者であるフランクに対して反乱を起こした。皇帝ルートヴィヒ(敬虔帝)は鎮圧のためカドロを送り、辺境の軍は土地を荒らして住民、とりわけ子どもたちを痛めつけた。だがスラヴ人が兵を集めると、フランク軍はまもなく敗れ、カドロ自身も故郷のフリウリへ退いて、間もなく病で死んだ。同年7月、インゲルハイムの会議でリュデヴィトの使者が休戦の条件を示したが、皇帝はさらなる譲歩を求めて退けた。リュデヴィトは同盟者を集めた。当初の盟友はグドゥシャニ人の指導者でダルマチアとリブルニアの公ボルナであったが、フランク側がパンノニア公の地位を約束してボルナを引き込んだため、ボルナは討伐側についた。リュデヴィトはフリウリ辺境伯領と境を接し同じ脅威を受けていたカランタニアやカルニオラのスラヴ人の助けを得た。ブルガール人の脅威にさらされていたティモク川流域の人々も加わった。
その秋、新しいフリウリ辺境伯バルドリクの率いる大軍が来襲した。ドラヴァ川沿いでカランタニアの兵を集めていたリュデヴィトは、数で勝るフランク軍にカルニオラからドラヴァ川の向こうへ押し返され、領内の中央部へ退いた。バルドリクはカランタニア人を鎮める必要があり、追撃しなかった。南西からはボルナがリュデヴィトの舅ドラゴムジュとともに進んだが、クパの戦いの最中にボルナ配下のグドゥシャニ人がリュデヴィトの側へ寝返り、ドラゴムジュは戦死した。ボルナは護衛に助けられて戦場を脱した。リュデヴィトはこの機に乗じて12月にダルマチアへ攻め入り略奪したが、ダルマチア側は巧みな戦術と消耗戦で対抗し、厳しい冬が丘陵地に訪れて、リュデヴィトは退却を強いられた。ボルナが皇帝に宛てた報告では、リュデヴィト側は兵3,000人、馬300頭以上と多くの食糧を失ったという。
820年1月、ボルナはアーヘンで皇帝と同盟した。三方から同時に攻める計画で、春にはイタリア、バイエルンなどで大軍が集められた。北の軍はドラヴァ川で、南の軍はノリクム・アルプスの手前でそれぞれ食い止められたが、中央の軍はリュデヴィトが三度阻んでも数の力で勝ち、ドラヴァ川に達した。リュデヴィトは領地の中心部へ退き、丘の上に築いた堅固な砦にこもり、民は森や沼地に避難した。交渉には応じなかった。フランク軍は、北の軍がドラヴァの沼地で病に倒れて兵力を減らしたこともあり、やがて撤退した。カランタニアのスラヴ人は内政の独立を失い、辺境伯バルドリクを君主と認めさせられたが、リュデヴィトに忠実な者も残った。ボルナは821年に死去し、リュデヴィトの甥ヴラディスラフが後を継いだ。その後、リュデヴィトは戦いに敗れてまずセルビア人のある地域へ逃れ、そこを治めていた首長を殺した。次にダルマチアの公リュデミスルのもとへ身を寄せたが、そのリュデミスルに殺された。
同じ年に亡くなった人物
- スラヴ人トマス (823年没)
- Thekla (823年没)
- Maria of Amnia (823年)
- Ceolwulf I of Mercia (823年)
- アル=ワーキディー (823年)
同じ地域に関係する人物
- ナドベザ・ペーター (2023年没)
- Zdeslav of Croatia (879年没)
- セプティムス (271年没)
- グリケリウス (480年没)
- フィリピコス・バルダネス (714年没)