HISTORICAL PERSON · 823年没

スラヴ人トマス

9世紀のビザンツ帝国の将軍で、ポントス地方のスラヴ人の出自とされる。821年から823年に皇帝ミカエル2世へ大反乱を起こし、アッバース朝と同盟して帝都を包囲したが、敗れて処刑された。

生涯
823年没
死亡地
トルコ共和国(クルクラーレリ県 / リュレ・ビュルガズ)
出生地
トルコ共和国(Gaziura)
出典
世界地図
トルコ共和国(クルクラーレリ県)

伝記

スラヴ人トマスは、9世紀のビザンツ帝国の将軍である。760年頃に生まれ、823年10月に没したとされる。821年から823年にかけて皇帝ミカエル2世(在位820年-829年)に対し大規模な反乱を起こし、これはビザンツ帝国史上最大級の反乱の一つに数えられる。

出自ははっきりしない。『続テオファネス年代記』は歴代皇帝に仕えた者の出自と述べ、『皇帝列伝』は彼をグズロウ湖から来たアルメニア種族のトマスと呼ぶので、「スラヴ人」の異名は現代の呼び名にすぎない。両親は貧しく、十分な教育も受けなかったことのほかは、家族や幼少期はわかっていない。反乱時に50歳から60歳の間だったことから、760年頃の生まれと考えられている。若い頃については二つの話が伝わる。一つは、803年に将軍バルダネス・トゥルクスの部下として初めて現れ、以後軍人として歩んだという話である。もう一つは、コンスタンティノープルで高位の人物に仕えたが、主人の妻との姦通を試みたことが露見してアラブ人の地へ逃れ、25年を過ごし、殺された皇帝コンスタンティノス6世の名を騙って小アジアに侵入したという話である。現代の学者の多くは、後者をミカエル2世が後に作った信頼できない伝承として退けている。

第一の話によれば、バルダネスの配下には、トマスのほかアルメニア人レオン(後のレオン5世)とアモリオン出身のミカエル(後のミカエル2世)という若い三人がいて、兄弟のような間柄だった。803年にバルダネスが反乱を起こすと、レオンとミカエルはすぐ彼を見放して帝国軍に走り、高い地位を得た。トマスだけがバルダネスの降伏まで忠誠を保ったという。その後の約10年は史料から姿を消し、アラブ人のもとへ逃れたとする説と、帝国内に留まって軍務を続けたとする説がある。後世の伝承には、バルダネスが三人を連れて修道士を訪ね、レオンとミカエルは皇帝となり、トマスは皇帝として歓呼されるが殺されると予言されたという話もあるが、史実とは考えられない。813年7月にレオンが皇帝になると、旧友たちは精鋭部隊の指揮を任され、トマスの師団はアナトリコン軍管区に駐留した。

820年のクリスマスにレオン5世が礼拝堂で殺害され、ミカエルが即位した。ほぼ同じ頃、トマスはアナトリコイで反旗を翻した。反乱がレオンの殺害より前だったのか、数日後だったのかは史料により食い違う。トマスは殺されたレオンの復讐を掲げて正当性と支持を得た。一方のミカエルは首都の外ではほとんど無名で、吃音を嘲られ、異端の宗派に好意的とも見られていた。トマスは小アジアの大半の軍管区と軍団の支持を集め、ミカエルの最初の反撃を破り、アッバース朝と同盟した。さらに「海のテマ」とその艦隊に勝つとヨーロッパへ渡り、コンスタンティノープルを陸と海から攻めたが、陥落させられなかった。

ミカエルはブルガリアのハーン、オムルタグに支援を求めた。トマスはその攻撃を退けたものの大きな損失を出し、数か月後にミカエルが野戦に出ると敗れて逃走した。支持者とともに逃れた先でもミカエルの軍に包囲され、支持者たちは恩赦と引き換えに降伏し、トマスは処刑された。反乱の動機には、聖像破壊運動、農村の不満、非ギリシア系の人々の反抗、個人的野心やレオン殺害への復讐心など様々な説があるが、聖像論争の役割は小さかったと現代の学者は見ている。ミカエルが敵の名を貶めるために創った情報が記録に混じるため、経過の詳細は不透明である。

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