伝記
第4代アバディーン伯爵ジョージ・ハミルトン=ゴードンは、1784年1月28日にスコットランドのエディンバラで生まれたイギリスの政治家、貴族である。第3代アバディーン伯爵の子であるハッド卿ジョージ・ゴードンの長子で、母はシャーロットといった。1791年に父を、1795年に母を亡くしたため、小ピットと初代メルヴィル子爵が後見人となって育てられた。ハーロー校で学んだのち、1800年にケンブリッジ大学に入学して、1804年にM.A.の学位を得た。1801年に祖父が亡くなると、第4代アバディーン伯爵位を継いだ。若いころにはヨーロッパ各地を旅し、ギリシャも訪れて古典文明とその考古学に深い関心を寄せ、帰国後にはアテネ旅行者協会を設立した。1805年には初代アバコーン侯爵の娘キャサリンと結婚した。
1812年に妻が結核で亡くなると、彼は外務省に加わった。1813年にオーストリア駐在の大使としてウィーンへ赴き、同年のトプリッツ条約に署名して、反ナポレオンの同盟に力を尽くした。ライプツィヒの戦いでは、オーストリア皇帝のそばで連合軍の勝利を見届けたという。戦場の惨状に強い衝撃を受け、荷車に積まれた負傷者や死者を見たことを手紙に書いている。1814年にはアバディーンのゴードン子爵に叙されて貴族院に列し、パリ条約の交渉にも関わったが、外相カースルレー子爵と対立して辞職した。1815年にハリエット・ダグラスと再婚し、1818年に先妻の姓を加えて「ハミルトン=ゴードン」と改めた。その後は約10年間、スコットランドの領地の経営に専念して政治から遠ざかった。
1828年にウェリントン公爵政権へランカスター公領大臣として入閣し、ついで外相となった。1834年から1835年の第一次ピール内閣では陸軍・植民地大臣を務め、1841年の第二次ピール内閣では再び外相となった。清に南京条約を結ばせてアヘン戦争を終結させ、列強との宥和外交を進めた。特にアメリカとの関係を重視し、ウェブスター=アッシュバートン条約で国境問題の解決にあたった。フランス外相ギゾーとの関係も強め、タヒチ問題ではフランスに譲歩している。外務省出身の彼は、長く軍事畑を歩んだパーマストン子爵とは正反対の外交観を持っていた。
1846年の穀物法廃止をめぐっては首相ピールの自由貿易路線を支持し、保守党が分裂するとピール派に加わった。1850年にピールが没すると、代わってピール派の指導者となった。1852年12月にダービー伯爵の保守党政権が崩壊すると、ホイッグ党はラッセル派とパーマストン派に分裂していて首相を出せなかったため、アバディーンが組閣の大命を受けた。ピール派6人、ホイッグ7人、急進派1人からなる連立政権であった。
彼は平和外交家として知られていたが、東方問題でロシアとトルコが開戦すると、反ロシアの世論や、内相パーマストンと外相ラッセルら閣僚を抑えられなかった。1854年3月にロシアに宣戦布告し、クリミア戦争が始まった。戦争が長引いて国民の支持を失い、政権は2年足らずで崩壊し、1855年1月に首相職をパーマストンに譲った。退任後は、イギリスを戦争に導いたことを後悔し続けたという。1860年12月14日にロンドンの自宅で死去し、爵位と財産は息子のジョージが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- メタクサス (1860年没)
- ジュリア・パストラーナ (1860年没)
- アルフレッド・エドワード・シャロン (1860年没)
- フアン=ラファエル・モーラ (1860年没)
- ジョン・ネルソン (司法長官) (1860年没)
同じ地域に関係する人物
- アウグスト・ウィルヘルミ (1908年没)
- サミュエル・コールリッジ=テイラー (1912年没)
- アンナ・カヴァン (1968年没)
- ジョサイア・コンドル (1920年没)
- リチャード・アッテンボロー (2014年没)