伝記
ワシントン・アーヴィングは、1783年4月3日にニューヨークのマンハッタンで、商人の息子として生まれたアメリカの作家である。父はスコットランド系、母はイングランド系の移民で、彼は11人兄弟の末っ子だった。名前はジョージ・ワシントンにちなんで付けられ、子供のころに実際にワシントンに会ったという。1802年、法律事務所で見習いをする傍ら、兄ピーターの雑誌『モーニング・クロニクル』に「ジョナサン・オールドスタイル」の筆名でニューヨークの風俗を風刺するエッセイを発表した。1804年に結核の兆候が現れ、保養をかねてヨーロッパに遊び、1806年に帰国して弁護士事務所を開いた。1807年には兄ウィリアム、その義弟ジェイムズ・カーク・ポールディングとともに、ユーモアやパロディで社会情勢を語る雑誌『サルマガンディ』を発行した。
1809年、最初の自著『ニューヨークの歴史』をディートリヒ・ニッカーボッカーの名で出した。古いオランダ系市民の生活をユーモラスに描いた風刺文で、この作品によって「ニッカーボッカー」という語が辞書に載り、英語でより広く使われるようになった。米英戦争の影響で家業が行き詰まり、イギリスで貿易商をしていた兄を手伝うため1815年に渡英したが、兄が病気になって破産したため、家計を助けようと執筆に励んだ。以後17年間をヨーロッパで過ごすことになる。1817年には長年憧れていたウォルター・スコットに人を介して会い、アボッツフォードのスコット邸に4日間滞在した。この会話が執筆を本格化させるきっかけになった。『スケッチ・ブック』は1818年とも1820年ともいわれる年に刊行され、「リップ・ヴァン・ウィンクル」と「スリーピー・ホローの伝説」を含み、アーヴィングを一躍有名にした。収録の物語はアメリカの雑誌に載ったが、イギリスでは無断で製本されてしまったため、彼は英米で同時に出版して著作権を守ることにした。
スペインにも4年間滞在し、スペイン語が流暢だったことから、スペインに関する著作は優れたものとなった。1828年に『クリストファー・コロンブスの生涯と航海』、翌年に『グラナダの占領』、1831年に『コロンブスの仲間達の航海』を著し、帰国の直前に『アルハンブラ物語』(1832年)を書いた。1829年からはロンドンのアメリカ公使館で秘書官として勤務した。1832年に帰国すると西部のフロンティアを旅し、『プレーリーの旅』(1835年)に先住民の様子を記して、白人が先住民の領土を追い、その人柄を作家たちが中傷してきたことを批判した。続く『アストリア』は、引退した大商人アスターのもとでの6か月に書いた、毛皮貿易植民地を作ろうとした彼への敬意に満ちた物語である。探検家ボンヌヴィルから地図とノートを1000ドルで買い取り、『キャプテン・ボンヌヴィルの冒険』(1837年)にまとめた。この作品は3作の西部の本のなかでしばしば最高傑作とされる。
1836年にハドソン川沿いの町タリータウンに屋敷を構え「サニーサイド」と名付けた。スペイン大使を務めた1842年から1846年を除いてそこで暮らし、遺作となる『ジョージ・ワシントンの生涯』(1855年~1859年)の執筆に専念した。隣人のペリー提督とも親しかった。1859年11月28日に没した。ニューヨークを「ゴッサム・シティ」と呼んだのも彼とされ、のちにバットマンの舞台となる架空都市の名の由来になった。近代短編小説の発達に大きく貢献した一人として評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・イブン・アリー・アッ=サヌーシー (1859年没)
- Charles Lenormant (1859年没)
- セルゲイ・アクサーコフ (1859年没)
- ヴィルヘルム・フォン・バーデン (1859年没)
- フェルディナンド2世 (両シチリア王) (1859年没)
同じ地域に関係する人物
- W・アヴェレル・ハリマン (1986年没)
- アーサー・アッシュ (1993年没)
- リオネル・ファイニンガー (1956年没)
- イヴァン・ガラミアン (1981年没)
- ドン・バッジ (2000年没)