伝記
アーサー・ロバート・アッシュ・ジュニアは、1943年7月10日に生まれ、1993年2月6日に没したアメリカ合衆国バージニア州リッチモンド出身の男子テニス選手である。四大大会の男子シングルスで3勝を挙げ、自己最高ランキングは2位だった。デビスカップのアメリカ代表に黒人選手として初めて選ばれ、四大大会の男子シングルスを制した初の黒人選手でもある。
母マティは、アッシュが6歳だった1950年3月に、27歳で亡くなり、5歳下の弟ジョニーとともに、父に育てられた。父は、リッチモンド市の遊園地の用務員で、特別警察官の役割も務め、息子には学業とスポーツの両方で優秀であることを求めた。体格が細かったため、アメリカンフットボールを禁じた。一家は、黒人専用の公園の敷地内の管理人の家に住んでおり、公園にはテニスコートが4面あった。7歳でテニスを始め、その才能は、公園で教えていた学生のロン・チャリティに見出された。幼少期から人種差別の影響で、ジュニアのトーナメントに参加できなかったが、10歳の1953年から、黒人医師のロバート・ウォルター・ジョンソンの指導を受けるようになった。ジョンソンは、アッシュを夏のキャンプの自宅に同居させ、学業とテニスの両面で多大な援助を与え、スポーツマンシップや礼儀、落ち着きの大切さを教えた。1958年には、メリーランド州の少年選手権に出場した最初の黒人となり、これが初めて人種の壁を越えた大会だった。
1960年には、人種隔離のリッチモンドでは白人の若者と対戦できず、市の屋内コートも使えなかったため、セントルイスの教師で、ジョンソンの友人だったリチャード・ハドリンの家に身を寄せ、最終学年をそこの高校で過ごした。1960年と1961年には、全米室内テニス選手権で連覇し、黒人として初めて全米ジュニア室内のタイトルを手にした。1963年にはテニスの奨学金を得て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に入学し、パンチョ・ゴンザレスと練習し、全米大学テニス選手権のシングルスでも優勝した。同年から、デビスカップのアメリカ代表に選ばれた。
1968年の全米オープンで、四大大会で初優勝を果たしたとき、アッシュは陸軍中尉として兵役に就いていた。この年は、これまでアマチュア選手しか出場できなかった四大大会に、プロ選手も出場できるようになった「オープン化」の年だった。オープン化後、最初の全米オープンで、アッシュはプロ選手のトム・オッカーを破って優勝した。1970年には全豪オープンでも優勝し、四大大会で2冠を獲得した。1975年のウィンブルドン選手権の決勝では、前年の優勝者ジミー・コナーズを破り、四大大会の3勝目を挙げた。1980年に現役を引退した。1981年から5年間、デビスカップのアメリカ代表の監督を務め、現役引退後は、全米テニス協会のジュニア育成委員として活動し、1985年に国際テニス殿堂入りを果たした。
早くから心臓疾患に悩まされ、1979年7月に36歳で最初の発作を起こした。病状は徐々に悪化し、心臓手術を受けたが、その際の輸血で、エイズウイルスに感染したとされる。1992年に感染を公表し、エイズの啓発活動に取り組み、1993年2月6日に49歳で亡くなった。同年6月には、クリントン大統領から、大統領自由勲章を贈られた。死から4年後の1997年、全米オープンの会場に新しいセンターコートが建造され、「アーサー・アッシュ・スタジアム」と命名された。開場式典ではジョン・マッケンローが「彼は偉大なテニス大使だった」とスピーチした。
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