伝記
カール大帝は、フランク国王(在位768年から814年)で、800年にローマ教皇レオ3世から帝冠を授けられたカロリング朝初代のローマ皇帝(在位800年から814年)である。シャルルマーニュとも呼ばれる。カロリング朝を開いたピピン3世の長男だが、出生については詳しいことが分かっていない。伝記『カール大帝伝』を著した側近アインハルトはこの点に沈黙しており、生年は一般に742年とされるものの、747年や748年とする説もあり、出生地もアーヘン説やエルスタル説があって定まらない。
父ピピンは751年に主君のメロヴィング朝キルデリク3世から王位を奪ってフランク国王となり、754年に教皇ステファヌス2世がサン=ドニ大聖堂で塗油した際には、後継者のカールとカールマンへの塗油も望んで実現させた。768年にピピンが死去すると、フランクの相続法により王国は二分され、カールはアウストラシアとネウストリアを、弟カールマンはブルグントやプロヴァンスなどを受け継いだ。二人の仲は不和であったとされる。771年にカールマンが早世すると、その妻は幼子とともにランゴバルド王国へ亡命し、カールはフランク全域の王となった。以後43年間、単独の王として君臨することになる。
生涯の大半は征服行で占められ、46年間の治世に53回もの軍事遠征を行ったという。770年にランゴバルド王デシデリウスの王女を妃に迎えたが、773年に教皇ハドリアヌス1世が援軍を求めると、義父との対決を選んで妃を送り返し、アルプスを越えてイタリアに攻め入った。翌774年に首都パヴィアを占領し、自らランゴバルド国王を称して教皇領の保護者となった。ザクセン族との戦いは772年に始まり、遠征は10回以上に及んだ。785年に指導者ヴィドゥキントが降伏したのちも抵抗は続き、完全に服属させたのは32年後の804年であった。778年にはイベリア北部へ遠征し、撤退の途上のピレネー山中でバスク人の襲撃を受けて大損害を被った。この戦いが、のちに『ローランの歌』の題材となった。788年にはバイエルン大公タッシロ3世を追い、791年以降はアヴァールを討ってこれを衰退させた。こうしてカールの王国は西ヨーロッパの大半に広がり、フランク王国は最盛期を迎えた。
統治では、各地の伯に忠実な家臣を送り込み、監査のために巡察使を定期的に派遣して、中央集権化を試みた。教会や修道院を各地に建て、付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。宮廷は一か所に定まらず、常に領内を移動したが、主な宮廷は794年にアーヘンに築かれた。アーヘンでは786年から宮殿教会の建設が始まり、八角形の宮廷礼拝堂は805年に完成した。外交では、アッバース朝と数度の使節を交換して友好を保った。
800年、教皇レオ3世から東ローマ皇帝の後継者として帝冠を授けられたが、コンスタンティノープルは皇帝位を承認しない代わりにフランク人の皇帝とは認めた。814年1月28日、70歳を過ぎて没した。843年のヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちの神聖ローマ帝国、フランス王国、イタリアの国々の源となった。古典ローマ、カトリック、ゲルマン文化の融合を体現した人物として「ヨーロッパの父」とも呼ばれ、1165年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の尽力により列聖された。
同じ年に亡くなった人物
- クルム (ブルガリア皇帝) (814年没)
- アブー・ヌワース (814年)
- アンギルバート (814年)
- Sufyan ibn `Uyaynah (814年没)
同じ地域に関係する人物
- アウグスト・ケクレ (1896年没)
- ディルク5世 (ホラント伯) (1091年没)
- ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン (1723年没)
- ムンカーチ・ミハーイ (1900年没)
- フリードリヒ1世 (1131年没)