伝記
桓武天皇は、日本の第50代天皇である。諱は山部。737年(天平9年)に生まれ、806年4月9日(延暦25年3月17日)に在位のまま崩御した。在位は781年から806年まで。平城京から長岡京、さらに平安京へ遷都したことで知られ、践祚と日を隔てて即位した初めての天皇でもある。現代の皇室と桓武平氏の祖とされる。
白壁王(のちの光仁天皇)の長男として生まれた。生母は百済系の和氏の出である和新笠で、のちに高野新笠と称した。当初は皇族としてよりも官僚としての出世が望まれ、大学頭や侍従に任じられた。即位前は山部王と呼ばれていた。状況が大きく変わったのは34歳のときで、称徳天皇の崩御により父の白壁王が急に皇位を継いだのである。父の即位後に親王となり、のち中務卿に任じられたが、生母の出自が低かったため、立太子は予想されていなかった。ところが藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟で皇太子の他戸親王の母である皇后の井上内親王が772年に、他戸親王が同年のうちに相次いで突如廃された。山部親王は773年に皇太子とされた。その背後には式家の藤原百川による擁立があったとされる。
781年に父から譲位されて即位し、翌日には同母弟の早良親王を皇太子に定めた。783年には百川の兄である藤原良継の娘の乙牟漏を皇后とし、のちの平城天皇と嵯峨天皇が生まれた。百川の娘の旅子との間には、のちの淳和天皇である大伴親王がいる。右大臣の藤原是公、中納言の藤原種継、大納言の藤原継縄の3人が特に重用され、前期の治世を支えた。785年には藤原種継暗殺の廉で早良親王を幽閉し、廃太子のうえ流罪とした。早良親王は絶食して配流中に亡くなった。同年に安殿親王を皇太子とし、交野柏原で日本初の郊祀、すなわち天を祀る儀式を行い、787年にも再び行っている。
遷都については、肥大化した奈良仏教の寺院の影響力を嫌ったことが背景にあるとされる。当時、秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開だった山城国へ移ることを選び、784年に長岡京を造営した。しかし天災や近親者の不幸、祟りが相次ぎ、その原因が天皇の徳のなさにあると民衆に判断されることを恐れたという。わずか10年後の794年、和気清麻呂や藤原小黒麻呂らの提言もあり、四神相応の地とされる平安京に改めて遷都した。東北では蝦夷の征討を3度行った。789年の紀古佐美の軍は惨敗したが、794年の第2次遠征で補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢し、801年の第3次遠征で征夷大将軍とした。802年に田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送して脅威は薄れ、803年の志波城の築造の時点でほぼ平定された。地方行政を監査する勘解由使も置き、歴代天皇のなかでも稀な積極的な親政を行った。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされ、最澄を還学生として唐に送って天台宗を学ばせ、日本の仏教に新しい動きをもたらした。一方で南都六宗には封戸の没収などの圧迫を加えた。晩年の805年には、平安京の造作と東北への遠征がともに百姓を苦しめているという藤原緒嗣の建言を容れ、どちらも中断した。いわゆる徳政相論である。また、井上内親王と他戸親王、早良親王にまつわる不自然な死を恐れ、800年に早良親王へ崇道天皇と追号し、井上内親王には皇后位を復した。崩御の後、安殿親王が平城天皇として即位した。陵は京都市伏見区の柏原陵に治定されている。
同じ年に亡くなった人物
- ヤフヤー・ブン・ハーリド (806年)
- 順宗 (唐) (806年没)
- Tarasios of Constantinople (806年)
- ファザーリー (806年)
- Grimoald III of Benevento (806年)