伝記
ニコライ1世は、1796年に生まれ、1825年から1855年まで在位したロマノフ朝第11代のロシア皇帝である。ポーランド立憲王国の国王(ポーランド語でミコワイ1世)とフィンランド大公も兼ねた。父は皇帝パーヴェル1世、母は皇后マリア・フョードロヴナで、九番目の子として生まれた。姉が六人、兄が後のアレクサンドル1世とコンスタンチン大公の二人いたため、皇位に就くことは当初あり得ないと思われていた。誕生の五か月後に祖母エカチェリーナ2世が没して父が即位し、1800年には四歳で聖ヨハネ騎士団の制服を着る資格を得た。成長すると端整な容姿で知られ、リアサノフスキーは彼を「ヨーロッパで最もハンサム」な魅力的人物と評したという。
しかし二人の兄に嫡男がなく、1825年に長兄アレクサンドル1世が急死し、次兄コンスタンチンが皇位継承権を放棄したことで、ニコライは皇帝に即位した。兄とは二十歳ほど離れており、祖母の影響で自由主義的だった兄に対し、父の影響を受けて厳格な性格を受け継いだとされる。治世の初め、1825年12月に、憲法と議会の開設を求める青年将校らのデカブリストの乱が起こった。ニコライ1世は軍に鎮圧を命じ、反乱はすぐに収まったが、これを機に専制政治を強める決意を固めた。ベンケンドルフ伯爵を登用して1826年に皇帝官房第三課を創設させ、この秘密警察はレールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンらを流刑にした。
内政では地方の自治を次々に廃止し、ベッサラビアは1828年、ポーランドは1830年、ユダヤ人の自治共同体は1843年に自治を失った。一方フィンランドは、ポーランドの十一月蜂起の鎮圧にフィンランド出身の兵が忠実に加わったこともあり、自治を保った。1833年には国民啓蒙相ウヴァーロフが、正教・専制・民族性を柱とする政権の指導原理を考案し、保守的な政策の支えとなった。1837年にはロシア初の鉄道がサンクトペテルブルクとツァールスコエ・セローの間に開通し、1842年から51年にかけてサンクトペテルブルクとモスクワの間にも敷設された。1829年にはワルシャワで憲法に基づきポーランド国王に即位している。1831年には貴族会議での投票を百人以上の農奴を持つ者に限り、1841年には土地を持たない貴族が農奴を土地から切り離して売ることを禁じて、地主層への統制を強めた。農奴制は嫌っていたが、貴族の反発を恐れて廃止を断念し、キセリョフ将軍の助言で王室農奴の地位を向上させるにとどまった。
ニコライ1世は軍隊を重んじ、軍人を好んで政府の要職に任じた。ロシアは強大な軍事国家と見なされたが、人口六千万から七千万のうち軍隊は百万人を数えたが、騎兵の馬はパレード隊形でしか訓練されておらず、装備や戦術も時代遅れだったとされる。対外的には1826年からのギリシア独立戦争に介入し、英仏との連合艦隊が1827年のナヴァリノの海戦でオスマン帝国を破った。続く1828年から翌年の露土戦争にも勝利し、オスマン帝国に対して優位に立った。一方、1839年以降は元正教会司祭を介して、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニアのカトリック教徒に正教を強いたため、ローマ教皇やディケンズなど西欧から非難された。ユダヤ人にも1827年に徴兵制を課し、書籍の検閲を強めた。しかしクリミア戦争が始まると、鉄道網の不備、官僚機構の汚職、旧式の艦船といったロシアの弱点が露呈した。
ニコライ1世は戦争のさなかの1855年3月2日(ユリウス暦2月18日)に没した。戦争が終わるころ、ロシアの指導者たちは政治と軍政の改革を決意していた。
同じ年に亡くなった人物
- ジャック=シャルル・デュポン・ド・ルール (1855年没)
- Jacques Arago (1855年没)
- ペール・ダニエル・アマデウス・アッテルブム (1855年没)
- ジャン=バティスト・イザベイ (1855年没)
- Karl Friedrich Hermann (1855年没)
同じ地域に関係する人物
- セルゲイ・キーロフ (1934年没)
- セルゲイ・クリョーヒン (1996年没)
- マルク・タイマノフ (2016年没)
- ナターリア・プーシキナ (1863年没)
- フランツ・ヨーゼフ・ルプレヒト (1870年没)