伝記
ウィリアム・ルーファス・デ・ヴァーン・キングは、1786年4月7日、ノースカロライナ州サンプソン郡で、ウィリアム・キングとマーガレット・デ・ヴァーン夫妻の子として生まれたアメリカ合衆国の政治家である。ノースカロライナ州選出の下院議員、アラバマ州選出の上院議員を経て、第13代副大統領となった。1803年にノースカロライナ大学を卒業し、1806年に法曹界に入ってクリントンで弁護士業を始めた。1807年から1809年まで州下院議員を務め、1810年にはウィルミントン市の代理人となった。その後、第12から第14議会に選ばれ、1811年3月4日から1816年11月4日まで連邦下院議員を務めた。
議員を辞した後は、ウィリアム・ピンクニーの下でナポリおよびサンクトペテルブルクの公使館の書記官となり、1818年に帰国した。この年、アラバマ州ダラス郡のアラバマ川沿いに土地を買い、綿花の大農園をチェスナット・ヒルと名付けて経営した。この土地は現在キングズ・ベンドとして知られ、セルマとカハバの間にある。キングとその親類はアラバマで奴隷を所有する最も大きな家族の一つで、あわせて最大500人を所有していたという。1819年にアラバマが州として承認されると、州政府を組織した協議会の代表だったキングは、民主共和党から上院議員に選ばれた。アンドルー・ジャクソンの支持者として1822年、1828年、1834年、1841年に再選され、1844年4月15日まで在職した。この間、第24から第27議会では上院仮議長を務め、公有地委員会と通商委員会の議長にもなった。
1844年から1846年までは駐仏公使を務めた。帰国後、アーサー・P・バグビーの辞職で空いた上院の席に民主党から選ばれ、1848年7月1日から再び上院議員となった。1850年協定をめぐる論争の間、奴隷制反対の陳情をめぐる議論を封じる措置を支持し、コロンビア特別区での奴隷制廃止に反対した。憲法が南部と連邦の準州で奴隷制を保護していると主張する一方、南部脱退論にも反対した。1850年7月、ザカリー・テイラー大統領の死去から2日後に上院仮議長に任命され、副大統領が空席だったため大統領継承順位の1位になった。健康問題で辞職する1852年12月20日までその職にあった。
キングはジェームズ・ブキャナンの親友で、ブキャナンが大統領になる前、二人はワシントンで15年間家を共有した。ジャクソンがキングを「ミス・ナンシー」などと呼んだとも伝わり、現代の歴史家には二人の関係が親密だったと推測する者がいる。ただし、性的関係があったという証拠は存在しないとされ、評価は論争の的である。
1852年、フランクリン・ピアースとともに民主党の副大統領候補として当選した。末期の結核のため余命が長くないと考えられ、議会の特別承認によって、1853年3月24日にキューバで就任の宣誓を行った。外国領土で宣誓した唯一のアメリカ合衆国高官である。療養先はジョン・チャートランドがマタンザスに所有する農園だった。その後まもなくキングズ・ベンドに戻り、1853年4月18日に副大統領在職45日で死去した。農園内の納骨堂に葬られ、のちにセルマのライヴ・オーク墓地に再埋葬された。ワシントン準州にはその名にちなんでキング郡が作られたが、1986年にマーティン・ルーサー・キングに敬意を表する形に改められた。副大統領職は1857年まで空席であった。
同じ年に亡くなった人物
- グレゴリー・ブラックスランド (1853年没)
- ウィリアム・ボーモント (1853年没)
- マーロン・ディカーソン (ニュージャージー州の政治家) (1853年没)
- Tabitha Babbitt (1853年没)
- Patriarch Germanus IV of Constantinople (1853年没)
同じ地域に関係する人物
- デズモンド・T・ドス (2006年没)
- リチャード・イェーツ (作家) (1992年没)
- グレン・シャディックス (2010年没)
- ウィンストン・グルーム (2020年没)
- ジェームズ・レイチェルズ (2003年没)