伝記
ジョン・ジェームズ・オーデュボンは、1785年4月26日、西インド諸島のフランス領サン・ドマング(現在のハイチ)のレカイで生まれた画家・鳥類研究家である。フランス語名はジャン=ジャック・オーデュボンで、出生時の名はジャン・ラバンだったと英語版は伝える。父はブルトン人の船長でプランテーションと奴隷を所有していたジャン・オーデュボン、母はフランスからの移民ジャンヌ・ラビーヌで、私生児として生まれた。母は生後数か月で亡くなり、1788年に父に連れられてフランスへ渡った。ナントに近いクエロンの父の所領で、父の本妻アンヌ・モワネ・オーデュボンに育てられ、7歳から絵を習った。幼いころから鳥に強い親しみを持ち、森を歩いては鳥の卵や巣を持ち帰り、粗い絵に描いた。父は息子を船乗りにしようと考え、12歳で軍学校に入れて見習いにしたが、船酔いしやすく数学や航海術も好まなかったため、士官の資格試験に落ちて海軍の道は断たれた。
1803年、18歳のとき、統領政府の徴兵を逃れるためアメリカへ渡った。フィラデルフィア近くにあった父の農場で働きながら鳥の絵を描き、やがてケンタッキーで雑貨店を開いたが、経営は共同経営者に任せきりで、各地を旅して鳥の観察を続けた。1819年には借金のために債務者監獄に入れられ、破産を余儀なくされた。翌1820年、北アメリカの鳥類を描いた画集の出版を思い立った。彼が絵を描きためる間は、妻が教師をして家計を支えた。ところが画集はアメリカでは出版元が見つからず、1826年にイギリスへ渡った。1820年から翌年にかけてはミシシッピ川を蒸気船で旅し、動植物や先住民について日記に記している。
『アメリカの鳥類』は1827年から予約販売され、水彩画をもとにした彩色銅版画435枚が収められた。解説書として、スコットランド人の博物学者ウィリアム・マクギリヴレイとの共著『鳥類の生態』全5巻(1831年~1839年)も発表した。1839年にアメリカへ戻り、アメリカ版の『アメリカの鳥類』を出版した。それまでの博物画は標本をもとにすることが多かったが、彼の画集は生きた鳥を自然の生息環境の中で躍動的に描き、一羽一羽を実物大で描いたことが特色である。制作中には、完成していた200枚ほどのスケッチをネズミに食いちぎられ、いったん研究を諦めかけたが、茫然自失の日々のあと再び猛然と描き始めたと自ら語っている。
各地の旅を通じて、アメリカの自然が破壊されていく様子も記録した。1810年代と1830年代のオハイオを比べて、ヨーロッパから流れ込んだ人々による森林の破壊を嘆く一方、西部開拓は大事業として評価し、必要な狩猟は肯定していた。先住民や黒人の描写では、当時の一般的な白人の見方とは異なる姿勢をとり、先駆的と評価されている。1843年にはミズーリ川を蒸気船で旅した。1851年1月27日に亡くなった。名は全米オーデュボン協会に残り、著作はネイチャーライティングの作品としても評価され、ソローらに影響を与えた。一方、英語版は、奴隷の売買や学術上の不正をめぐる批判にも触れており、近年は名称を変更した地域のオーデュボン協会も多いとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ジョバンニ・ベルシェ (1851年没)
- ベルナルディーノ・フェルナンデス・デ・ベラスコ (1851年没)
- ミハイル・ラーザレフ (1851年没)
- ヴィンチェンツ・プリースニツ (1851年没)
- メアリー・シェリー (1851年没)
同じ地域に関係する人物
- リア・デ・プッティ (1931年没)
- ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (1973年没)
- クラウス・ノミ (1983年没)
- グローヴァー・ワシントン・ジュニア (1999年没)
- 呉健雄 (1997年没)