HISTORICAL PERSON · 1851年没

メアリー・シェリー

イギリスの小説家。ゴシック小説『フランケンシュタイン』で知られ、SFの先駆者とも呼ばれる。母はフェミニズムの先駆者ウルストンクラフト。

生涯
1851年没
死亡地
イギリス連邦(ドーセット / チェスター・スクエア)
出生地
イギリス連邦(サマース・タウン)
出典
世界地図
イギリス連邦(ドーセット)

伝記

メアリー・シェリーは、1797年8月30日にロンドンで生まれたイギリスの小説家である。旧姓はゴドウィンで、ゴシック小説『フランケンシュタイン』の作者として知られ、この作品によりSFの先駆者あるいは創始者と呼ばれることもある。母は女性の権利を論じた思想家メアリー・ウルストンクラフト、父は無神論者でアナキズムの先駆者とされる思想家ウィリアム・ゴドウィンで、両親の結婚の年に生まれた。母は出産から11日後に産褥熱で亡くなり、メアリーは異父姉ファニーとともに父の手で育てられた。父は豊かな非公式の教育を与え、自らの政治思想に沿うよう促したとされる。父は母の死の翌年に回想録を出したが、母の恋愛や婚外子の存在まで明かしたため世間には衝撃を与えた。メアリーはこの回想録や母の著作を読み、母の思い出を大切にするように育てられた。1801年12月に父がメアリー・ジェーン・クレモントと再婚すると、メアリーは継母をひどく嫌うようになったという。

1813年ごろ、メアリーは父の政治的な信奉者であった詩人パーシー・ビッシュ・シェリーと出会った。パーシーにはすでに妻がいたが、1814年に二人の恋愛を知った父が激怒するなか、メアリーは継妹クレアとともにパーシーと大陸へ駆け落ちし、ヨーロッパを旅した。帰国したときメアリーは身ごもっており、翌1815年に生まれた長女は生後間もなく亡くなった。二人は世間の冷遇や借金に悩まされた。1816年1月には長男ウィリアムが生まれた。同年5月、バイロンに誘われてレマン湖畔で夏を過ごし、ディオダティ荘での怪奇談義をきっかけに『フランケンシュタイン』の着想を得て執筆に取りかかった。帰国後の12月、パーシーの妻が自殺したため、メアリーはパーシーと結婚した。

『フランケンシュタイン』は1817年5月に脱稿し、1818年1月に匿名で出版された。同年3月には夫の序文を付けて再び匿名で出され、この日、一家は子どもを連れてイタリアへ向かった。しかしイタリアでは不幸が続き、1818年9月に次女クレアラが赤痢で、1819年6月に長男ウィリアムがマラリアで亡くなった。同年11月に生まれた次男パーシー・フローレンスが、成人した唯一の子となった。1820年2月には『マチルダ』を脱稿したが、父が原稿を預かったまま返却を拒み、出版されたのは約140年後の1959年であった。1822年7月、夫パーシーはヨットが暴風雨で沈没して亡くなった。

翌1823年2月に『フランケンシュタイン』第2版が出され、同年8月にメアリーは帰国した。以後は息子の養育と職業作家としての仕事に打ち込み、1826年には終末を描く『最後の人間』を出版し、歴史小説『ヴァルペルガ』(1823年)や『パーキン・ウォーベック』(1830年)なども著した。1831年には『フランケンシュタイン』の第3版(改訂版)を出している。晩年の約10年は病に苦しみ、脳腫瘍が原因だった可能性が高いとされる。1851年2月1日、53歳で亡くなった。長く夫の作品の編集者、そして『フランケンシュタイン』の作者として知られたが、近年は小説を中心にその業績が見直され、協力と共感によって社会を改良しようとする考えが作品に通底すると論じられている。

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