HISTORICAL PERSON · 793年没

大欽茂

渤海第3代王。唐の制度に倣い五京制など中央集権体制を整え、日本へもたびたび使節を送り交流を深めた。

生涯
793年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

大欽茂は、渤海の第3代王である。武王大武芸の三男として生まれ、737年に王位を継いだ。渤海では文王とも呼ばれ、793年に没するまで在位した。渤海の王のなかで最も長く在位した人物とされる。即位の翌年には大興と改元した。即位後、唐は内侍を派遣し、渤海郡王、左驍衛大将軍、忽汗州都督に冊封した。渤海国内では、大興宝暦孝感金輪聖法大王のほか、可毒夫、聖王、基下などとも称されたという。妻は孝義皇后とされ、長男の大宏臨は王に先立って没し、次男の大貞斡には入唐の記録がある。四男は康王と呼ばれ、750年に生まれ809年に没した。

その治世は、唐の制度に学んで国内を整える文治政治に特徴がある。文王の即位以前の渤海では、部族制と郡県制が並存する行政制度がとられていた。これを唐制にならって改め、上京龍泉府を中心に域内へ府州を設けることで、中央集権的な統治の基礎を築いた。中央の統治機構も三省六部として整えて支配体制を強め、散官制度と勲爵制度もこの時代に整備された。唐の五京制にならって上京、東京、中京が置かれ、780年代には東京龍原府への遷都が行われている。『続日本紀』には南海府の名も現れ、西京もすでに整っていたと推測され、この時期に渤海の五京制が確立したと考えられている。この五京制は、のちの遼や金にも影響を与えた。唐の国学にならって、国の最高学府である冑子監の設置も認めたとされる。

文王は即位直後から唐へ積極的に使節を送り、半世紀に及ぶ在位中、記録に残るだけでも50回以上の入貢が確認される。これには政治的な安定を求める目的だけでなく、唐の先進的な文化や制度を学ぶ目的も大きかった。留学生の数は飛躍的に増え、漢籍もより多く日本にもたらされた。この時代の墓碑とされる貞恵公主墓碑と貞孝公主墓碑には、『尚書』『詩経』『易経』『礼記』『論語』『史記』『漢書』など、多くの書物からの引用が見られる。貞孝公主は文王の四女で、その墓は1980年に発見された。また、南の新羅との関係も強め、新羅道と呼ばれる交易路が発達したという。

日本との交流は武王の代に始まったが、文王の代には十数回の使節が送られ、規模も大きくなった。当初は安史の乱に関する情報交換や、乱で帰国が難しくなった遣唐使を渤海経由で帰国させるなどの性格があった。それが次第に政治・軍事的なものから、文化・経済的なものへ変わっていった。746年には、渤海人と鉄利人1100人あまりが日本へ赴き、民間貿易を計画したことも記録される。

唐で安禄山と史思明による安史の乱が起こると、その影響は渤海にも及んだ。安禄山は平盧節度使として渤海を含む4府の経略使を兼ねており、渤海都督府の上部機構による反乱だったからである。文王は波及を恐れて西部国境に大軍を置き、日本とも連絡をとった。755年に安禄山の軍が洛陽を占拠し、やがて長安に至ると、営州地域が乱れて渤海と唐の交通は断たれ、前後4年間、唐側の記録から渤海の入貢は姿を消す。756年には平盧の徐帰道が、757年には王玄志の使いの王進義が来て、出兵を求めたとされるが、文王は慎重な態度をとり、具体的な行動を起こさなかった。燕に呼応することも、混乱に乗じて勢力を広げることも避け、一貫して唐を支持したとされる。乱の平定後の759年には楊方慶を唐に入朝させ、762年には唐が文王を渤海郡王から渤海国王に改めた。文王は793年に没した。

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